早稲田生って馬鹿ばかりって思ってる君へ

早稲田大学公認イベント企画サークルqoon(クーン)の新歓用ブログです。

私たちのホモネタ論(後半)

qoonwaseda.hatenablog.com

はこちら

 

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【事例2】
サークルの仲良し7人組での飲み会。あなたは全員の事を「異性愛者」だと勝手に思っている。
日頃から仲良しの女性Aと女性Bは、肩を寄せ合い二人で楽しそうに話し、別の所では、同じように仲良しの男性Aと男性Bが肩を寄せ合って話している。
男性Cは、男性Aと男性Bだけを見て「ホモかよ!」と言い放ち、場は笑いに包まれた。

 

「男尊女卑」強化のためのホモネタ

春藤
「女性よりも男性の方がスキンシップなどをしている時にネタにされることが多いと思う」「男性アイドルがじゃれているところを指して腐女子向けの営業だなどと言われているのを見るとモヤモヤする」と言った意見が届いています。

 

なとせ
男性のほうがネタにされやすいと思う。この事例あるあるよね、よく見るーって感じ。

 

太田
あるある。

 

春藤
なとせさんは冒頭のところで学生の時に「レズかよ」と言われてたという話をされていましたが、女性同士より圧倒的に男性同士の方がネタにされることが多いと感じますか?

 

なとせ
うん!男の人のほうがスキンシップを咎められる?ことが多いと思う。それって何か~何が原因なの?男女差別?男女格差?女の子同士がいちゃいちゃしていても許容範囲みたいな雰囲気があるのに男の人同士だといろいろ言われるのはなんでなんだろうね。

 

春藤
いわゆる「ホモソーシャリティ」みたいなものが背景にあると思います。

 

森山
ホモソーシャリティ」っていうのは、同性同士の親密な関係性が限りなく同性愛の関係に近似して行って、「でもあれ(同性愛)じゃないんだよね」というエクスキューズを繰り返すことによって、男性が上であるっていう権力構造を維持するものなんです。この事例の背景にあるのは間違いなく男尊女卑でしょうね。

 

この時、どうすればいい?

春藤
「すごく大学生あるある」「なんでホモは茶化す対象になるんだろう」「『ホモ』という言葉を無差別的なニュアンスで笑いの対象とする無意識な共通認識がある気がする」という意見が出ています。

 

太田
こういう時にみんなが何を言っていいのかが気になる。あるあるって言ってるぐらいあるんだったら今の人はどう対応するんだろうっていう風に思う。僕とかだったらさ、もう「はいそれ差別でーす」(大きく手を上げながら)とか冗談ぽく言うけど。

 

なとせ
SOGIハラ~! (どんだけ~のリズムで)

 

森山
「誰に向かって言ってんだ」くらい言うよね。

 

太田
でも僕らみたいに当事者であることをオープンにしてる人がいない場で、みんなどういう会話してんだろうっていうのが気になる。

 

森山
でも確かに学生とかからは「そういう発言を聞いて何も言えなくてつらかった、なんか言えたんじゃないか」みたいな意見が来る。


なとせ
春藤ちゃんは?

 

春藤
うちのサークルで話あったときに出たのは、言いたいけど自分がいわゆる「意識高い系~~???」みたいに揶揄されるのは嫌で、言うには勇気がいる…という意見がでましたね。

 

森山
すごく厳しい言い方をすれば、「意識高い系」と言われることが嫌だな、と思って引けるのは、あなたがマジョリティだからでしょうっていう、話にもなってきて。

マイノリティはそこで引いて終わるだけじゃなくて傷つくんですよ。だからそこは言ってよ、なんでもいいから頑張って言ってよ。そっちにエンパワーメントしたいという気持ちがある。

 

太田
んん~~~わかるけど飲み会がしけるのも嫌なんだよな~!

 

なとせ
そう、うぎゃー!

 

森山
別にいいですよ。

 

なとせ
それは森山さんが強いからですよ。

 

森山
「面白くないの上等」って思ってないと戦えないっすよ。

 

太田
戦うっていう感覚ないですけどね、あんまり。どう対話していくかって言う。

戦うって結局あっちとこっちでどっちに来るか、「あんたこっち来なさいよ」っていう戦いになっちゃうから、僕はそういう二項対立は構造として好きではない。

時間はかかってしまうし、手っ取り早くはないんだけど、対話するために好戦的にならないということは意識しているかなあ。

 

なとせ&森山
なるほどね

 

太田
でもくそだるいノンケとかっているじゃん!

くそだるいなって思うけど、「はい、アムネスティインターナショナルに電話しま~す」(腕を高くあげながら)って言ったりする(笑)

 

(会場から凄まじい笑いが)

 

で、それでその場はいっかい盛り上がる。

でもその後で「やっぱああいうのよくないのかな」って言った人は考えるかもしれないし、実際に、僕の周りの態度っていうものもめっちゃ変わったんだよね。そういうのを続けることで。


ホモネタの未来

春藤
今後ホモネタってどうなってくと思いますか?完全になくなるのか、変化して生き残っていくのか、「考える機会を与える」ものとして存在し続けるのか。

 

「考えるきっかけになったからいいじゃん」?

森山
今までもずいぶん変わってきていると思う。そもそもすごく差別的な表現とかは減ってきていると思うし、自虐的でキレキレな表現もうそろそろ出てくるんだろうなって思ってる。希望的な観測ではあるけど。

 

ただ、「こりゃだめだな」って思ったものが1個あって。
差別的な表現が出てくると、必ず「それでも考えるきっかけになったからいいじゃん」みたいな意見が言われるよね。確かに、1990年代とかにめちゃくちゃ同性愛差別的な同性愛ドラマが放送されてたときも、そりゃ山口達也の裸を見たくてゲイ達は一生懸命、金曜日の夜に早く家に帰ったんですよ。

 

(太田だけ大笑い)

 

なとせ
わかんないわかんない!

 

森山
帰ったんだけど、じゃあ、あれで良かったのかといえば、そうじゃない。
「考えるきっかけになったから良かった」っていうタイプの正当化でしか価値を見いだせない表現はどんどん消えていくし、消えていった方が表現は面白くなる、ということは言っていかないとな、と思いましたね。


「笑い」を橋渡しに

なとせ
今の話を聞いてて思ったのは「 LGBT」 って言葉自体がそうだし、「考えましょう」「知ってみましょう」というテイストのイベント・機会・風潮っていうのはまだまだあると思うけどもしかしたら、それはもう遅いのかもしれない。一緒にやっていかなくちゃいけないのは、「その後、じゃあどうするの」っていうことだと思うから。

 

ホモネタに限らないけど「笑い」というものが一つのスパイスみたいになって欲しいと思う。「みんな分かり会いましょう」「理解しましょう」「ALLY !!」みたいなところから一歩進んで、「じゃあ問題はわかったけど、ここはどうすればいいの」とか「自分の中での差別意識があるのはどう折り合いつけたらいい?」とかそういうことがみんなの前で話せるようになる時まで「笑い」はすごく良い橋渡しになると思う。


「そういうので笑うの、もういいよね」をみんなで作っていく

太田
色々思うところはあります。さっき「笑い」って「笑ってしまうものだよね」という話をしましたけど、「笑ってしまう」という感情的なもの、衝動的なもののベースには、みんなの今の価値観というものがあって、その先で「笑ってしまう」って起きるので、どっちが先か、ぐるぐる回るものだと思うんですよね。

 

だから、今日ここに来てるみんなが、「そういうので笑うの、もういいよね」っていう価値観を持って、今後いろんな人と飲み会に行ったり、笑い話をしたりしていく中で、新しいホモネタが、ホモネタって言葉がもなくなるのかもしれないけど、「どういったように取り上げられていくのか」っていうことは、みんなによって作られていくものだと思う。

 

人にはたくさんの側面があって、きっとそのどこかに共感できるところがあるはず

太田
さっきあった「気持ち悪いって思っちゃう人もいるわけじゃないですか」っていうことに関して言いたいことがあって。

本当に僕はその通りだと思っています。気持ち悪いとか思っちゃうことはあるじゃん、誰だって。でもそういうことを、今ここにきている人が、僕らとかに思っているとすれば、伝えておきたいのは、僕は「ゲイなだけ」の人ではない、ということなんです。


僕は「ゲイなだけ」ではないんです。例えば、バレーボールが好きだったり、ダンスが好きだったり、編集という仕事をしていたり。その1つ1つでいろんな人との絆があったり熱量があったりして。

 

「俺、正直ホモって気持ち悪いな」ってあなたが思っていたとしても、実際に「ホモ」と言われている人にはそれ以外にもたくさんの側面があって、「俺もきっとその中のどこかには共感できるんだろうな」ということだけは知っておいて欲しいです。

人は、ただ1つのタグで決められる存在じゃないじゃん?

 

なとせ
泣けるぅ‥

 

太田
(本当に)泣いてる?

 

森山
小さい笑いを取りにいかなくていいんですよ。

 

なとせ
小さいとか言われたんだけど!!!

 

私見ですが、本当に泣いていたと思います)

 

質疑応答

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「太田さんからピー・エス・エスの動画を作る時に『こういう人から批判されるだろう』とか『嫌がられるだろう』とか想定していたという話がありましたが、具体的にどういう人たちを想定していましたか?それは非当事者なのか当事者なのかそのあたりについてお聞きしたいです」

『ピー・エスエス』の制作秘話

太田
細かくは色々あります。例えば、一つ挙げるとすると、冒頭の場面で僕らは「日本では同性婚ができません。もうさ、つまらなくない~?」と言っているんですけど、「つまんない」っていう表現自体は、同性婚があるべきかどうかっていう議論を真剣にしている人からしたら失礼になりかねないな、と思っていて。

 

「この表現をするとこういう人が怒るよね」とか「怒るだけじゃなくて失礼じゃない?」とか。「それでも、こう表現したいの?」ということを本当に長々と議論していました。

 


「差別や偏見を無くしていこうという流れの中で、それをしている人と戦うという最近の風潮には違和感を覚える。差別や偏見を持っている人も時代の流れによって自己変容を求められていて、それなりの葛藤もあると思う。問題を共に考えていく仲間にしなくちゃいけないのなら今のそういった雰囲気では問題があると思う。」

 

「差別をしちゃう構造」を治療したい

なとせ
ゆくゆくは一緒に戦っていく仲間にならないといけない、というところがすごくいいと思った。
「差別している人」じゃなくて「差別をしちゃう社会の構造」が悪いと私は思っている。でも、社会に含まれているのは人だから、人と社会の両方にも病理があるのかなって。
だからどっちにも治療法が必要だと思うだけど、できれば 社会の方の治療をしていきたいかなあ。

 

対話し続けることが大事

太田
(なとせと)ほぼ一緒なんですけど、
システムと個人があった時に、システムに原因があると基本的に僕は思っています。
でも、とはいえ個人もシステムの中で生きているという面で、個人が集まってシステムを動かしていくわけだから、個人に原因がないとも言えないよね、という感じ。鶏が先か卵が先かみたいな話になっちゃう。


で、僕はそんな感じなんで少なくとも言えることは、「個人が絶対に悪い」とは言えないということで、対話をすることが一番大事だと思う。

攻撃すると、コミュニケーションが続かなくなって、対話ができなくなってしまうと思うんだよね。僕はさっきみたいに「はい、アムネスティインターナショナルに電話しま~す!」みたいに楽しい会話の中でどうやってコミュニケーションを続けていくかが大事だと思う。

 

とはいえ会話にならない人っているじゃないですか、そこがすごく問題なんですよ。そういう人を相手に「対話が大事ですよね」「みんな仲間になりましょう」みたいなのはやっぱりちょっと限界があるよね~。

 

「諦める」ことも場合によっては必要

森山
同じようなことと、違うこととを思っています。
1つには、マジョリティの側も社会の刷り込みによってある意味「(異性愛が普通だ、だとかを)思い込まされている」というのは事実だと思います。

だけど、だから戦闘態勢で来られるのは不当だ、と言われると、それは随分マジョリティに甘い話にしかならないのではという気もしなくはなくて。そこまでこっちから宥和ムードを出してあげなければいけないのかな、という気持ちもあります。

 

今、太田さんが言ったように、基本的には私もコミュニケーションができるのであればうまいこと敵対的にならないようにしたいって思っています。敵になるんじゃなくてなるべく協調しながらコミュニケーションをして、お互いを変えていくみたいな事も素晴らしいと思います。

けど、そういう方法が通じない人については諦めるっていうことも結構大事なのかなって思っていて。世の中を良くするっていうのは世の中のみんなを聖人君子にすることではないので。

 

「一生懸命相手に聞いてもらわなきゃって思うことをやめる」っていう決断をすることも場合によっては必要なのかなって。単純に個人を批判する、「あなたは散々そういうことを言ってんだからあんたは間違ってんだよ」というやり方を一概に否定する必要はないし、残しておいた方がむしろいいのかなという気もしなくはないです。


場合によると思うんですよ。無理に敵対したいわけではないんだけど、敵対せざるを得ない時に、「自分がいい人である」ことに縛られてそれを断念しちゃうと、より事態が悪くなるということもある。

 

最後に

森山
大変面白い議論をできたなと思っています。
2つ残っている論点があってそれをみんなで共有したいなと思います。
1つは最初の方にちょっとだけ種をまいておいたんですけど、ゲイが自分のことを「ババア」と呼んで自虐するみたいな話。これって自分以外のカテゴリーの人についての言葉を流用してるんですよね。

 

「ババア」っていうのは端的に言うと女性差別なわけですよね。こういうタイプの自虐っていうのもあってこれは別個に考えなければいけないなと思います。今回は完全に自分を表すカテゴリー語を自分が使うことについての是非とかを話し合っているけど、他人に関するカテゴリー語を使うこともよくあるので。

 

もう一点は、今日は「ホモネタ」だったんですけど多分「トランスネタ」もあって。
これはまた別個に考えなくちゃいけない。似ているところと違うところがあって、例えば「元男」「元女」みたいな言葉がどういう意味を持つのかっていうのはまた別に考えなくてはいけないと思う。その点も含ませながらさらにいろいろと考えていただけたら嬉しいなと思います。
今日は楽しかったです。ありがとうございました。

 

なとせ
私は個人的にはお笑いについてすごく考える機会が最近多くて。人に「笑われちゃう」のではなくて、「笑わせにいきたい」と私は思っていて。だから笑わせたい時にどうすればいいんだろうみたいなことを本当に日々思っていたところで、いろんな切り返しというかネタとかを色々皆さんと共有できてよかったです。

 

今日ここに集まってくれた人が飲み会に行ってそういうネタをやるわけではないと思うんだけど、何かあった時にクスってなっちゃうとか、笑うことって、明日を生きていくパワーに絶対なれると思うんですよ。

 

私は笑いのパワーみたいなことを信じているよってことを伝えておきたいです。今日はみんなとそれを共有できたことがすごく良かったです。とてもいい時間だったなと思います。本当にありがとうございました。

 

太田
それ(笑いのパワー)に関しては僕も本当にそう思っていて。本当に「笑い」ってすごい好きだし、大事にしているので、「笑ってしまう」ことまでは否定しないでほしいなと思っています。

自分の笑っちゃった時の気持ちをすぐに否定しないで欲しいなって思ってます。
ただそれが終わった帰り道とか家に帰る時に、「でもあれで笑ってる自分どうなのかな」とか、そんな内省を、それこそ「ホモネタ」だけじゃなくて色んなことでみんなが「あれってよかったんだっけ」みたいな風に思っていくことは、すごく嬉しいなと思います。「笑い」というものはすごく暴力的にもなり得るので。

 

さっきも言ったことだけど本当に今日来てくれている人々がいるということが、すごく希望だと思います。皆さんが今日を機にこれからも色々ホモネタに限らず、いろんなことを考えて、いろんなことをやっていてほしいなと思います。

ありがとうございました!!

 

 

 

追記

WASEDA LGBT ALLY WEEKの開催にあたり、協力してくださった関係者の皆様に心より感謝申し上げます。

 

 

 

 

 

 

私たちのホモネタ論(前半)

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春藤
司会を務めるWASEDA LGBT ALLY WEEK責任者の春藤です。
今日はホモネタについて考えていきたいと思います。

登壇者の紹介


なとせ

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性性堂々というチャンネルで活動している、レズビアンのなとせです!

よろしくお願いしまーす!私は普段はyoutubeレズビアンってどんな人たち?どんなところで出会ってるの?という感じの動画で挙げたりしていま~す!


太田

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LGBTとエンタメというテーマで活動しているやる気あり美という団体の編集長兼代表の太田尚樹(おおたなおき)と申します。

「ここをネタにしていいのか、しちゃいけないのか」というのは日々、話ながら活動しているので、自分も勉強できればなと思ってやってきました、よろしくお願いします。

 

森山

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早稲田大学の文学学術院で社会学クィアスタディーズを教えている森山至貴(もりやまのりたか)です。一応「真面目枠」で今回は呼ばれていることになるのでしょうか。
1つだけ最初に言っておきたいことがあって、「ゲイ×レズビアン×社会学者」というイベントタイトルあるように私は「社会学者」枠で参加していますが、同時に私はゲイでもあるので、そこを踏まえて話を聞いてもらえるとありがたいです。


僕も「笑われる対象」なのかなって

春藤
学生時代にメディアや日常の中でホモネタを見聞きして傷ついたことはありますか?

 

太田
具体的には思い出せないのですが、「何かしらはあったな」と思います。僕の高校時代はIKKOパイセンの全盛期であられまして(笑)

テレビに出ては「どんだけ~」と言って韓国のコスメを勧めるという時代だったんです。いじられるとかは具体的には覚えてないけどみんながIKKOさん笑っている中で自分も「笑われる対象」なんだなあ、というのはずっとありましたね。

 

当時はスマホもネットもあんまり普及してなくて、調べものがあんまりできなかったんですよね。

 

「レズ」って音が怖いんですよ

なとせ
私は中高女子高だったんですよ。バスケ部のかっこいい先輩がいて、その人のことを「かっこいい~」って言ってたら、「なとせレズだろ~」とか言われてましたね。「バレてる~~、なんで~~」って思った(笑)
「レズかよ~」とか「レズって噂されてるけど大丈夫!?」って友達に言われたりして、「私が本当にレズビアンだとは思わないの?」って感じだった。

 

「レズ」って濁音があって音が怖いんですよ~、今はもう一皮も二皮も剥けたけど当時は「レズ」って言われるたびに傷ついてた。

 

「絶対言わない」というこの人の偏見に傷ついている誰かがいる

春藤
早稲田の学生の言動の中に「ホモネタ」を見ることはありますか?

 

森山
僕の授業を履修している学生さんは基本的にセクシュアリティの問題かにセンシティブか、センシティブでなければいけない、という建前は知っている学生ばかりなので、直接的にそういう差別的な話を聞いたことはないです。

 

ただ、授業のリアクションペーパーの中で、「LGBT を差別してはいけないということや、LGBTを差別してはいけないという流れが世の中にあって、そのことは理解できるんですけど 自分の中にある偏見は消えないから、一生黙って誰にも言わずに生きていこうと思います」という意見があったりして。

「私に言ってるじゃんあんた」っていう。

 

太田
黙ってねえ~(笑)

 

森山
「絶対言わない」と言っているこの人は、きっとどこかでその偏見を漏らしていて、それで傷ついている被害者がどっかにいるんだろうな、と思いますね。

 

「性のあり方」の優先度の違いが軋轢を生むことも

春藤
逆に傷つけてしまったという経験はありますか。

 

太田
自分にとってセクシュアリティは大事なアイデンティティではあるんだけど、アイデンティティとしては今はかなり低い状態になっていて、日常の中であまり「自分はゲイだ!」ということに注目することがあんまりない。

言われたら「ゲイっす」くらいの感じで。「ゲイとして~~!!」というものがあんまりなくて。

 

だから、そういった時にぽろっと言ったことが今現在ゲイとして、セクシャルマイノリティとして苦しんでいる人にとったら僕の態度は粗雑だったりして、しんどいところもあるのかな~と思う。

 

森山
あるある。性のあり方の「優先度の違い」が当事者間にあると、けっこうコミュニケーションに気を使う。

「軽いものなんだよ」って自分のこととして思っていても、向こうにとって今すごく重要な問題の場合、その人は軽いこととして扱われているということをしんどく感じてしまう。

 

なとせ
あるある。 「結局、性別って関係ないよね!」、みたいなまとめ方をしちゃうと、「いや、関係あるんだけど」って、今まさに悩んでる人たちにとってはすごく雑に扱われたというか「そんなまとめ方で私の話は終わらないんだけど」みたいな気持ちにさせちゃうのかなって。

 

レズビアン」どう呼称するか三大派閥

なとせ
後は呼称の問題かな。これはレズビアンあるあるなんですけど、自分のことを「レズ」っていうか「レズビアン」っていうか「ビアン」っていうかの三大派閥があって。

 

太田
ゲイ界隈も「ホモ」って言っちゃう人もいるし、「オカマ」って言う人もいるし。

 

森山
「ババア」もいるね(笑) これはまた違う問題だけど。

 

なとせ
あはは(笑)
今まさに「自分のアイデンティティをどう表現するか」ということを悩んでいる人たちにとって、私がYouTubeとかで軽々しく「レズ」とか言ったりするのは嫌だろうなと思う。 だけど、私は私のことを「レズ」って表現するのが一番しっくりきていて、それをどう折り合いをつけるのか難しい。


三者の人から「レズって言わないでください」って怒られたりするときに、そこをどうやって伝えればいいのかなって思う。私が加害者になってしまうことも考えられるけど、私が私自身の立場をどうやって表明するかの自由が蔑ろにされていいものとも思わないし。

そういったセンシティブじゃない部分によって誰かを傷つけることがあるんだろうなって私は思うけど、もっと「レズ」という言葉をポジティブに使っていってもよくない?という意見もあると思う。

 

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春藤
それでは、来ていただいた方にも、「ホモネタ」について考えていただきたいと思いますので、これからグループワークを行っていただきます。私たちが考えた事例をもとに、「ホモネタ」について議論をしてください。そこで出た意見を紙に書いていただいて、それを元に後半の議論を進めていきたいと思います。

そして議論の際は、以下のグラウンドルールを守ってください。

 

・尊重し合おう…どんな意見も否定しないようにお願いします
・話したくないことは話さない
・シェアは慎重に…暴力等の経験の共有は慎重にお願いします
・見た目で判断しない‥見た目で人のジェンダーセクシュアリティを決めつけて、それを前提に話をしないようにしましょう
・いつでも離席してOK!

 

【事例1】
ゲイを公言している人と、いわゆるストレートの人のお笑いコンビ。このコンビの漫才は、「ホモネタ」を主軸として進行していく。
このコンビがテレビ番組で披露したネタの中で、「ホモは気持ちが悪い」というセリフがあり大炎上。
しかし、炎上騒ぎの中でも「ゲイがゲイをネタにする分には問題がないのではないか」「そもそも誰も傷つけないネタは不可能なのだから、とやかくいうこと自体が野暮だ」「ポリコレに配慮しすぎるとどんないじりもできなくなって、つまらなくなる」というような意見が見られた。

 

「当事者同士なら?」

春藤
「当事者同士だからといって問題にならないということはない」という意見が出ました。

 

森山
その意見は本当にその通りだと思う。
ただ事実としてはゲイ同士とかレズビアン同士とかで自虐的な話し方をしてウケる、とか盛り上がるということは普通にある。けれどもゲイ同士だから何でも言っていいということには絶対にならない。

 

「みんなが笑える」ということはないかもしれない、ということは言える。だけど逆にヘテロとかの人が言ったのと同じように傷つくのかと言われればそれはまた違くて。
当事者同士だとヘテロの人に言われるよりは「(言っていいことの)許容度が上がる」というのはあると思う。

 

場合によってはすごく仲のいい人同士で、例えばヘテロの人がゲイに向かって「ホモ」と言っても「ウケる」時もあるかもしれないし、それが「ウケる」関係性というものはそれはそれで尊いものだと思う。

 

だから当事者・非当事者で明確に線を引くことはできないけど、そこでもやはり違いはある。

 

ネタの文脈で「ホモ」の意味も変わる

森山
これってネタの中身がどうなのかってところで、変わるところもあるかもしれない。
この発言を受けて、どんな返しをしているかにもよるよね。

 

例えば、「ホモは気持ち悪い」と言ったボケに対して、ツッコミが「今時そんなこと言ってんじゃねーよ」みたいな返しがあったのならそれはまた別の形になるのかな。それだとしたら逆に面白くなりうる。わざと「ホモ」という言葉を使って、批判的なメッセージとまではいかないまでもそれに近いことを伝える余地はあるはず。

 

なとせ
突っ込みようによってはポジティブなメッセージにもなりそう。

 

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テレビ、マスコミュニケーションの影響力

春藤
「テレビという影響力の強いメディアでマイナスイメージを植え付けるようなことを言うべきではない」「テレビでやることで、『ホモは気持ち悪い』がテンプレート化する。いじめに発展する危険性もある」「ホモ=気持ち悪い=面白い、という記号が作られ、それが日常に流れ込む」という意見が出ました。

 

太田
テレビでやるとやっぱり記号化が起こるから、そこは意識していく時代になって欲しいと 思っているし、現になっていってると思う。

それこそ保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)の件はすごくエポック メイキングなことだったと思う。あれでメディア全体の意識が変わったと思ってるし、それはすごく良かったし必要なことだったとも思う。

 

森山
記号っていう話が出たけど、そもそもそういった記号の中に収まる事って面白くないん じゃないの、という話にはならないのか、という気も少しして。

「面白くないでしょ、この期に及んでホモネタとかさ」という風にクリエイトする人たちが思ってくれないと、とはちょっと思う。


見ている人たちの中にある「定型的な差別意識」というものをあてにして笑いを作る根性がなんなのって感じ。「プロ意識低くね?」って思う。

 

なとせ
お笑い論だ(笑)

 

森山
そこをひっくり返すから、お笑いって面白いはずだったんじゃないの、って思う。

 

なとせ
ユーチューバーもねyoutubeのネタを作るときに、「みんなが見たいもの」とか「みんなが見て面白いもの」とかを意識してネタを作ることがよくある。テレビもきっと同じような構造になってて、視聴者とか上の人が面白いと思うことでないと、放送してもらえない、というのは絶対あると思う。

 

古い体質がずっと上にあって、それを元にしてネタとかテレビを作ったりしているから、いつまでたっても同じような馬鹿馬鹿しいものが再生産されているんだよね。その古いものに対して、どっかで「面白くない」と言わなきゃいけないと思うし、それを今、言い始めたころなんだと思う。

 

「笑っていい」or「笑っちゃいけない」?

太田
「笑い」に関してすごく難しいなって思っているのは、よく「笑っていいよ」「笑っちゃダメ」みたいなことを言うけど、それが僕にはあんまりピンと来てなくて。

そうじゃなくて、「笑ってしまう」か「笑ってしまわないか」と僕は思っていて。
だから、基本的に「これを笑っちゃいけないよね」っていうような視点でやる気あり美ではものづくりはしていない。

僕とかメンバーのみしぇうとかはすごくいじめられっ子だったんですよ。みしぇうとかは特に。その時のマインドは今の自分に影響していますね。いじめられてボコボコにされてすごい鼻血とか出して、でもふと鏡で自分の顔を見たら、自分の顔がすごく面白くて笑っちゃった、みたいな。で、それって「笑っていい場面か」と言えば、「笑っていい場面」ではないんですよ。でも「笑ってしまう」ってあるじゃないですか。

 

だからこそお笑いをやる人たちは「笑ってしまう」恐怖みたいなものをちゃんと自覚しないといけないよなあ、と思う。

 

ちょっと前にジャルジャルがナインティナインの岡村さんをいじりすぎて炎上したことがあったじゃないですか。それに関してジャルジャルが取材を受けて、「誰も傷つけないことは無理じゃないですか~」ぐらいでインタビューは終わっていて。それはその通りなんだけど、でも「誰も傷つけないのは無理じゃないですか」って言ってるのは笑いのプロとしては「意識低いな」、と正直思った。

 

「笑ってしまうもの」だからこそ気にしなくてはいけなくて。確かに彼らは笑ってしまうものを作っているし、いじめている描写は笑ってしまうんだけど、でもプロであるならば、それをやってしまうことがいいのかどうか、みたいな判断は意識しないといけないと思う。

 

「誰も傷つけない」は諦めるけど、「誰を傷つけているのか」については自覚的であろう

太田
やる気あり美が一番の編集方針としているのは「誰も傷つけないことは諦めるけど、誰を傷つけているのかについて自覚的である」ということで、それを一番大事にしている。

 

その人を本当に傷つけていいのかとか、ピー・エス・エスとかもなとせ一緒に作ったけど、「この曲を聞いて不快と感じる人は誰なんだろう」とか、じゃあ「その人に不快と思われてもやりたいか」ということをめちゃくちゃ内部で議論したんだよね。

 

それはなんか笑いをやる上で、「笑ってしまう」という物を取り扱う人間としての礼儀なんじゃないかなという意識はある。だから、ジャルジャルのあれは結構興ざめだったな。「それはそうだろう」と思って。その中で「なぜやったのか」という基準を持っておかなきゃなあ、と。


ポリティカルコレクトネスとホモネタ

春藤
「『ホモは気持ち悪い』と思っている人は当然存在している。そういった人がいるのだから、そういった表現は当然出てくる。ならば、それをポリティカルコレクトネスによって弾圧することはよくないのではないか」という意見と、それとは反対に、「そもそもマイノリティしか攻撃しないのにもかかわらず、ポリティカルコレクトネスに対して、『うざい』といった態度をとることはマジョリティ側の保身にすぎない」という意見が出ました。

 

森山
「内面で同性愛者を気持ち悪いと思っている人がいるんだからいいじゃん」といいますし、そういう(差別感情を持つ)人はいるでしょう。
でも、「同性愛者を気持ち悪いと思っている人がいる」、だから「それに迎合をしていくような表現があってもおかしくないだろう」っていう展開には、すごい「ジャンプ」がある。

 

例えば、日本に住んでいる人の95%が嫌っている人がいたとして、「その人死ね」っていう表現でみんなが笑っていいのかといったら「ダメ」ってみんな考えるはずなんですよ。そこによくない「ジャンプ」があるって、みんな気づくはずなんです。

逆に言うとそこが「ジャンプ」じゃなくて、すんなりつながって見えてしまう、つまり、「嫌いな人がいる➝嫌いな気持ちがある➝それに迎合する表現をしても良いんだ」と思う「ジャンプ」が「ジャンプ」に見えないのが「差別の構造」のせいなんです。

 

普通は「それはダメだ」っていう歯止めがかかるはずなんだけど、特定の属性を持った人に関してはその歯止めがかからなくて、「みんな嫌いなんだし、『死ね』という表現はオッケーじゃん」っていう話になっていて、それが「ジャンプ」に見えないのがそもそも「差別」だっていう話。

 

(拍手が起こる)

 

太田
社会学者~!

 

なとせ
よっ!

 

森山
授業ではもう少し難しい話をしています!

(会場からも笑いが)



表現の自由」は「どんな表現も誰からも批判されない自由」ではない

太田
僕、表現の自由に関しては表現の自由支持派なんですよね。さっき言ったのと一緒で「表現の自由」があるからには「表現の責任」があるはずで。

だからやっぱり、その自由を貫いているなら「どうやって責任をとるのか」というところに関しては意識すべきだと思う。

 

だからジャルジャルは自由を謳うけど責任を意識していなかったのが「ずるい」と思う。

そういう表現をしたいなら、批判されたときに「え~つまんない」で終わるんじゃなくて、それを言われた時に「そうですよね。それはそう思いました。俺らも悩みました。でもそこで岡村さん激しくいじるみたいな表現が俺らとしてはやっぱりやりたかったんです」っていうのだったら良かったんですけどね。

でも「それも駄目なの~?」ぐらいで終わらせたから、いやお前ら責任ないのに自由ばっか語りやがって!って思う。

 

森山
表現の自由って「どんな表現も誰からも批判されない自由」のことではないですからね。
表現の自由を行使して、表現をし、その表現に対して「いやそれ本当につまらないからやめろ」とか「人が傷つくからやめろ」と批判するのもまた、表現の自由の行使です。

 

そうやって揉まれながら、表現というものが色々と変わっていく、というのがそもそも全体としての表現の自由の成り立っている構造なので、表現の自由というのを盾にして批判をかわして済まそう思っている人がいたら、それはそもそも勘違い野郎(野郎かはわからないけど)だってことなんですよね。

 

qoonwaseda.hatenablog.com

に続く

「早稲田生は馬鹿ばかりだって思っている君へ」(qoonとは何ぞやのブログ)

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これを読んでくれているあなたはどういった経緯でこの記事にたどり着いたのでしょうか。

「早稲田生は馬鹿ばかりだって思っている君へ」という扇動たっぷりの張りビラを見てそこのQRコードを読み取った人。

qoonのツイッターからこの記事に飛んできた人。

私たちに興味を持っていて、ここにたどり着いた人。

それ以外のひょんな経緯で、この記事にたどり着いた人。

 

色んな人がいると思います。

「早稲田生は馬鹿ばかりだって思っている君へ」なんて「どんな奴が書いたんだよ(笑)」と思っているかもしれません。

 

そんな人のために私たちが「どんな奴」なのかをこの記事で説明していきたいと思います。

qoonとは?

正式名称は「イベント企画サークルqoon」

20年くらい(?)前に薬害エイズ問題を受けて結成されました。

 

名前に「イベント企画」とあるように、当サークルではイベントを企画します。

 

毎週水曜の18:30〜から学生会館で活動してます。

 

では、どんなイベントをどんな風にどんなコンセプトで企画してきたのでしょうか。

 

どんなイベントをどんな風にどんなコンセプトで?

私たちは確かにイベント企画サークルですが、少し他のイベント企画サークルとはテイストが違います。

他のイベサー(イベント企画サークルの略)みたいに、サイゼでミラノ風ドリアを頼みまくったり、「女子力アップ講座」も開いたり、大隈銅像前でスイカを割る、みたいなことはしません。(それが悪いという意味ではないので、炎上しないで)

 

私たちが行うイベントの根っこには絶対に「社会問題」があります。

腐るほどある社会問題を少しでも解決の方向に進ませたいと、イベントを企画しています。

 

「うわっ、クソ真面目じゃん」と思ったそこのあなた。

半分は正解ですが、半分は不正解です。

 

確かに、真面目と言えば真面目です。
「社会問題」を扱っている時点で、ある程度は真面目でしょう。

 

だけど、私たち「真面目なだけ」ではありません。

私たちは半分は「マジメ」ですが、もう半分は「オモシロい」のです。

 

というのも、私たちは「マジメなことをオモシロく」をコンセプトに活動しているのです。

 

「マジメなことをオモシロく」

ってどういうこと?と思った人のために解説します。

 

さっき書いたように私たちは「社会問題」について取組みます。

(「社会問題」ってマジメなことですよね?)

 

で、「社会問題に取り組もう」「社会を少しでも良くしよう」と考えた時に、まず多くの人にその問題について知ってもらう必要があります。知らなければ解決できないので。

 

じゃあ「知ってもらおう」、もっと言えば「共感してもらおう」「立ち上がってもらおう」と思った時に、どのように「社会問題」を伝えたならば、イベントの効果を最大化できるのでしょうか?

 

例えば、「エイズ・性病の啓発をしよう」と思ったとします。

その時に、大隈銅像の前で「日本では先進国の中で唯一エイズ患者が増えています!」「自分自身の、そして相手の体を守るためにコンドームをつけましょう!」と叫んだり、ビラを配ったところでどれだけの人がその問題について「知って」「共感して」「立ち上がって」くれるのでしょうか。

 

恐らく、そこを通りかかったほとんどの人が「また誰かがなんか言ってんな」くらいで終わってしまうのではないでしょうか。

立ち止まってくれるのは元々その問題に興味・関心がある人だけでしょう。

 

興味・関心の「ない」人に、「ある」人になってもらわなければ社会は変わりません。

 

じゃあ、どうすればそれができるのか?

 

 

「オモシロく」します。

 

「オモシロい」ことをしていれば自然に人が集まります。

人がたくさん集まれば、それだけ多くの人に問題について知ってもらえます。

もしかしたらその中には共感してくれたり、立ち上がってくれる人がいるかもしれません。

 

なので私たちはエイズ・性病の啓発をしようと思ったときに、ただただマジメに叫んだり、ビラを配ったりということはしません。

私たちはそう思ったときに、コンドームを配布します。大隈重信の目の前で。

~コンドームに、啓発の文章をそえて~

 

ただ「マジメに」叫んでビラ配布するよりも、「オモシロく」コンドームを配っている方が多くの人が足を止めてくれるでしょう。その物珍しさゆえに。

足を止めてくれれば、エイズ・性病の問題について知ってもらえます。

もしかしたら、共感してくれるかもしれません。

「俺はゴムなんてつけない」などと抜かしてる輩に、「コンドーム使ったほうがいいよ」と言ってくれるかもしれません。

 

私たちはその可能性を、社会が変わる可能性を最大化するために「マジメなことをオモシロく」します。

「社会問題」「エンターテイメント」を掛け合わせます。

 

それが私たちイベント企画サークルqoonの理念であり、核です。

私たちについて少しは知ってもらえたでしょうか?

 

じゃあ具体的に今までどんなことやったの?

WASEDA LGBT ALLY WEEK

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WASEDA LGBT ALLY WEEKとは、「誰もが誰かのALLYになれる」を柱に2016年から開催しているイベント。セクシュアルマイノリティの学生が過ごしやすいキャンパスにするために何が必要か?と考えた時に、ALLYの存在が不可欠と考えALLYを増やすことを目的としています。‬

ALLYとは一般にセクシュアルマイノリティの仲間などと訳されますが、このイベントでは「セクシュアリティに関わらず相手を尊重でき、差別に関して敏感な人」みたいに定義してます。(これは2017と2018の定義をまとめたもの)なお、一般にALLYというと"ストレート"の人を指すことが多いですが、当イベントではセクシュアルマイノリティを自認する人もALLYになることができます。

なぜなら自分以外のセクシュアリティの状況は想像しかできないので、他人に対して当事者・非当時者に関わらず尊重し、差別しないようにすることが必要だからです。‬

講演会

2017年(百合のリアル、知りたくない?)は文筆家・タレントの牧村朝子さん、2018年(私たちのホモネタ論)はYouTuberのなとせさん、ウェブメディアを運営している太田尚樹さん、文学部講師でクィアスタディを教えている森山先生をお呼びしてお話を伺いました。‬


‪Rainbow Tree

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銅像前で歩行者に風船を膨らましてもらいその間にセクシュアリティに関する知識や考えを話し合いました。‬


‪SOGI MAP

5m×5mの巨大教科書の上を歩いて性の多様性を実感できます!‬
‪他にも学内に啓発ポスターを貼ったり、短期間にたくさんのイベントをやるのでイベント期間中はヘロヘロになりますがやりがいがあります!!‬


‪ALLY WEEKは紹介ページもあるので詳しくはこちらも見てみてね!!‬

 

Challeng AIDS

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毎年12/1の世界エイズデー前後に、協賛としてジェクス株式会社様に提供していただいたコンドームを校内で無料配布しています。
目的は性感染症HIV/AIDSの予防啓発です。さらには“性について語ること”をタブー視しない社会を作ることを目指しています。


昨年度は4日間に渡って開催し、啓発冊子と共に4500個のコンドームを無料配布しました。また参加者には「コンドーム使用宣言」もしてもらい、その大盛況ぶりはNEWSポストセブンやYahoo!ニュースでも取り上げられました!

WAR ~Who Are the Rulers~

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2015年7月13日大隈小講堂にて開催。来場者約100人。
集団的自衛権の行使容認の是非が国会で問われていたこのころ、早稲田からも声を上げたい、考える機会を作りたいという思いでイベントを開催した。

第1部は憲法学者水島朝穂教授による講演。解釈改憲の理論的問題点を中心に語ってもらった。
続く第2部は戦場カメラマン志葉玲氏、国際政治学者奥迫元准教授、徴兵経験のある韓国からの留学生の三名によるトークショー。実際の戦争や軍隊をその身で体験した彼らの言葉を届けた。

 

ムエンシャカイ

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テレビシリーズ「無縁社会」の名物ディレクターと学生ゲストで贈るトークショー
お隣さんの顔を知らない。自分の時間を大切にしたい僕たちにとって、そんなことは当たり前かもしれない。好きな友達とサークル終わりに飲んで、たまにTwitterで近況を確認すればいい。確かにそうかもしれない。しかし、そんな生活にリスクはないだろうか。

 

一人暮らしをしている君。動けなくなるほど具合が悪くなったらどうする?異変に気付いて、はるばる電車に乗って来てくれる人がすぐ思い浮かぶだろうか?こんな時代だからこそ、「古くさい」地元のつながりをうまく使ってみてもいいんじゃないか。
長年、地域のつながりを追ってきたテレビディレクターに学生ゲストが疑問をぶつけながら、今の時代に必要な人間関係を来場者と一緒に考える。

 

ComingSoon…(qoonaviSYUKATSU)

大学生にシュウカツさせます。以上。これからいろいろ決めるよ。

 

 

 

こんな感じです。

これら以外にも「差別×鬼ごっこ」「自殺の終わり」「おかん、アフリカ人とお茶してくるわ」など様々なテーマのイベントを行っております。

 

そして、ここからが本題。

人がマジでいねえ

人がマジでいねえ、です。

マジです。このままでは長きqoonの歴史は平成と共に幕を閉じることになるでしょう。

平成の精神に殉死することになってしまう。乃木希典か?愛国者か?

 

ここで終わらせたくはありません。

ということで、

秋新歓するよ!!!!

第1回は10月24日!!

高田馬場周辺でやるよ!!詳しくはそのうちアナウンスするよ!!

来たい人はdmしてね!!

待ってます!!!

 

一緒に社会を変えませんか!!??

 

ツイッター→ @qoonwasedaNEW https://mobile.twitter.com/qoonwasedanew?lang=ja

 

 

ニーチェも言ってたじゃないですか。『死にもの狂いの剣士と、満足した豚からも等距離に離れていたところで、そんなのは凡庸じゃねえか』ってね。

 

伊坂幸太郎『砂漠』新潮文庫 2010

 

 

飲み込んだ声は、もう出せない

 

櫻井翔になりたいガールですこんばんは

 

 

えっと、いろんな話をするので嵐とゆずと秋元康への批判を聞きたくない人は回れ右してください!

 

 

康と防弾少年団の件、なんか、こう、すごい感動しました(語彙力

 

そういう声はTwitterでたくさん見たけど、正直もう決まったことだし、、、ねぇ、、、みたいなのを感じてた。

やーー、ほんとに変わるんだね。すごい。

 

で、私この件が妙に引っかかってて。なんでこんなに気になるんだろう。どうして?なんで?私が男性アイドルのファンだから?日本の老舗アイドル事務所のファンだから??このざわざわはなんだろ、、ってずっと思ってて。

とりあえず「もし自担がこういうことになったらどうするんだろ...。」って仮想状況を考えて、全然想像できないけど、多分、私は声を上げられないだろうなって。

いつもネガティブになりそうなことはSNSに書かないって決めてるし。(好きな人のマーケティングとかに響いたらいやだから)

 

 

ここでふとさっき気づいた

 

 

例えば、じゃなくて似た経験あったじゃん!!!経験してた!!!

 

そして声なんか1ミリも上げなかった。

 

 

 

今年の頭。ゆずの「ガイコクジンノトモダチ」という曲が話題になった。

私はゆず、別に嫌いじゃなかった(最近主語がデカいなという印象はあったけど)

でもこの一曲で、ゆずへの信頼はなくなった。

 

今年の夏、嵐はゆずとコラボした。北川さんの作詞。

甲子園のタイアップソングだった。

 

私はなんとなく嫌だった。どうして?どうしてゆずなの?って。

一方で、運営の構想もすぐにわかった。さわやか国民的グループ嵐とさわやかな曲調のゆず。そして、青春というさわやかながら「感動」を巻き起こす国民的イベント。

ぴったりだった。見た目は。

 

だからSNSで文句なんか言わなかった。

どうしてゆず?なんて。

自担のネガキャンなんかしちゃいけない。いやなら買わなきゃいい。

 

 

タイアップが甲子園なのも、Mステのパフォーマンスも、正直嫌だった。

甲子園はこのクソ暑いなかやるの本気か?って感じだし、このシステムで部活で搾取されてない?確かにキラキラしてるけど、ちゃんと批判して改善しなきゃいけないとこあるくない?しかも女子は入れないんだよ??って。

 

Mステは、甲子園球場からの中継だった。

甲子園のCMみたいに(あれもすごい嫌いだったんだけど)制服の女の子がスカート振り乱して踊ってた。嵐の後ろで。

これはCMの方。


フルバージョン【朝日新聞公式】第100回全国高校野球選手権記念大会「ダンス」篇

(あれ違うマウントなんだっけ?ちゃんと調べてないけどテレビ放送を見る限りは)女の子が入れないはずのグラウンドに、「踊る」という目的なら入れた。

野球は男の子しかできないのに、「青春」を表現するためのバックダンサーは女の子だらけだった。

女の子は悪くないよ。ダンス大会で優勝した実力あるチームのダンスは素晴らしかった。でも、画面はやっぱりなんかちょっと気持ち悪かったよ。制服を着た女の子が、スカート振り乱して野球場で踊ってるのは。

 

知ってる。すごい、素晴らしい演出だった、って。

「青春」を表現するにぴったりなブラスバンドと高校生のダンス。

甲子園からの中継も、カット割りもかなり凝ってた。そもそも甲子園借りられるのがすごいこと。

 

 

だから全部飲み込んだ。アイドルに政治を持ち込む私がおかしいですね、って。

 

 

 

今回のBTS秋元康の件はね、それを思い出させた。だからぞわぞわした。

何より私が苦しかったのは、今年の夏のことなのに私はもう忘れかけてた。

忘れた方が楽だからね。

 

で、その時飲み込んだ声は、もう出せない。

今言っても、もう、あの時出すはずの声じゃない。

今書いてるのはごまかしでしかない。

 

 

 

 

だから、ほんとに、ほんとに、韓国のファンのみなさんを尊敬します。

今日は外泊という映画を見てきました。韓国の非正規労働者の女性の労働運動を描いたドキュメンタリーです。

今日、ろうそくデモで歌う人々の動画を見ました。

なんつーか、ほんとに、かっこいいし、素晴らしいと思いました。

ちな、この「明日へ」は「外泊」と同じ問題を商業映画で描いてるらしい。

 

明日へ(字幕版)

明日へ(字幕版)

 

 

 

話逸れたけど。

 

今回の件ですごいエンパワーされたから、次は飲み込まないでいられるだろうか。

難しいけど、やれたらいいな、とは思う。

私は、社会運動をしてるし、個人的なことやエンターテインメントはものすごい政治的と思うから、怖いけど、声をあげたいな、あげなきゃな、と思い直した今日でした。

 

 

左利き用のハサミを

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おはようございます

こんにちは

こんばんは

 

これを読んでくださっているあなたは右利きですか?左利きですか?

ちなみに私は右利きです。

なので、日常生活において「右利きである」が故に不便を感じたことはありません。

 

母親が左利きなのですが、いろいろと困ることが多いみたいです。

ハサミや改札、マグカップ、デジカメのシャッターが押しづらいとか、まあいろいろ不便なようです。

 

「もう慣れたのよ」と母は言います。

「仕方ないしね~」とも言います。

「我慢我慢」と、言葉を漏らします。

 

子どもの頃の私は、こういった母の言葉に納得していました。

確かに、仕方ない、我慢しなきゃね、と。

 

でも、クソガキとクソオトナの間になった2018年9月の私は、本当に「そう」だとは思えなくなってしまいました。

 

「仕方なくなくない?」

「我慢しなくちゃいけないことなんてなくない?」

 

 

 

社会が「右利き用」に設計されているのは、「右利き」のほうが数が多いから。

数の少ない「左利きの人」用のものよりも「右利きの人」用のものを作ったほうが売れる。当たり前。

結果、数の少ない「左利き」は無視される。それはお金にならないから。

 

これって本当に仕方のないこと?

(ある程度は矯正可能とはいえ)生まれつき決定される「〇効き」によって不便を強要されることって本当に我慢しなくちゃいけないこと?

 

(ちなみに、左利きの人は右利きの人に比べて、不眠症アルコール依存症統合失調症などになりやすい傾向にあるらしい)

 

数が少ないが故に、不便を強いられ、高い疾病のリスクに晒される。
これを差別と呼ばずになにを差別と呼べばいいのでしょうか。

多数派が多数派にとって都合のいい社会を設計し、少数派は周縁へと追いやられる。

This is Sabetsu.って感じです。

 

もしも、左利きの人がこんな風に声を上げたらどうなるのでしょうか。

「左利きの人は苦しんでいる!社会のいろいろなところを右利きでも左利きでも生きやすい世の中に改善してくれ」

 

 

きっと、自称合理主義者からこんな声が上がる気がします。

「いや、数が少ないんだし仕方ないでしょ。我慢してよ」

「今更社会の構造を変えるとか無理だし、仮にできてもコストがかかりすぎる」

想像することがあまりにも容易です。

 

上の発言から本音を取り出すとこうなります。

「「私は困ってないから」」

 

自分が何もせずに獲得した権利を手放したくないのです。

その権利が、特定の属性を持っている誰かに対して抑圧的に働くものであったとしても。

 

当然、この「私は困ってないしそのままあんたらは我慢し続けてよ」現象は利き腕の話に限ったことではありません。

男女、セクシュアルマジョリティとセクシュアルマイノリティ、高学歴と低学歴、健常者と障がい者、etc....

いろいろあります。

 

「私は困ってないしそのままあんたらは我慢し続けてよ」はいくらなんでも醜悪すぎる本音です。

この醜悪さを隠すためにひどく不出来なオブラートが用意されます。

不出来なので、中身がすっけすっけです。

そして、そのオブラートには「合理性」という名前がついていることがよくあります。

 

 

「いや、数が少ないんだし仕方ないでしょ。我慢してよ」
「今更社会の構造を変えるとか無理だし、仮にできてもコストがかかりすぎる」

一見、合理的です。自分ではなく、社会全体のことを考えた発言のようにも聞こえます。

でもその実態は、醜悪な本音を「合理性」オブラートに包んだものに過ぎません。

繰り返すようですが、そこにあるのは結局「私は困ってないから」の精神。

 

 

中身が透けてるっつーの、お前が変わりたくねーだけじゃん、自分が苦労したくないだけじゃん、他人はどうなってもいいのかよ、という感じですね。

(もっと高品質なオブラートを用意してくれ)

 

 

でも、過度に合理化(資本主義化)が進んだ現代では、この「合理性オブラート」は一定以上の強度を持ちます。

そして、最大利益を獲得することを目的とする資本主義社会に暮らす人々にとって、絶対数が少なかったり発言力の弱い集団相手の商売というものはなかなかやりたくないでしょう。

だってお金にならないだもん。

そういった理由でたくさんの人々が切り捨てられています。

 

 

でも、それでも左利き用のハサミが無くていい理由にはならない。

それがないことで困っている人がいて、それがあることで助かる人がいるのだから。

 

じゃあ、誰が左利き用のハサミを作るのか?

それはきっと、これを書いている私と、これを読んで共感してくれているあなた。

 

 

一緒に、左利き用のハサミを作りませんか?

過度な合理主義に脳みそを支配されている奴らの鼻を一緒に明かしてやりましょうよ。

数が少なかろうが、力が弱かろうがハッピーに生きれる社会を作りませんか、一緒に。

 

 

部室であなたが来るのを待っています。

 

 

その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ。

 

伊坂幸太郎『砂漠』新潮文庫 2010

呪いをかけたあなたへ

 

逃げ恥ですっかりおなじみとなった「呪い」

 

念の為説明すると「呪い」とは、常識とか固定観念とか「あなたは○○なのよ」と言った言葉などにより、それが正しいと思い込んで動けなくなることです。

 

 

私はこの夏、いくつかの呪いを解きました。

呪いには、魔法です。

呪いをかける人間がいるなら、魔法をかけて呪いを解く人間もいる。

 

私にとって呪いが解けることは、身体が軽くなることです。解放です。素敵なことです。好きです。

 

でも、少し寂しいのです。

呪いは、呪いをかけてきた人間の血です。その人間がかけられてきたいくつもの呪いに苦しんだ末に吐き出された血が呪いとなって私を縛るのです。

 

私は長年こびりついたその血に、愛着が湧いているのです。

だって、その血を浴びせた人間、私に呪いをかけた人が私の大切な人でもあったから。

 

呪いにかかり続けることは、その人の痛みや苦しみを共有しているかのような気持ちになります。

あなたと苦しみを分かち合うなんて、なんか「愛」っぽいでしょ?

 

 

あなたは言いました。

「私だって毎日頭が痛い。そんなに特別なことじゃない。(だから頭が痛いからって苦しそうにしないで)」

「あなたは体調が悪くなれていい。(私はこんなに頑張ってるのに誰からも心配されない)私だって倒れるくらいひ弱だったら認められるのかな…」

 

あなたの言葉を信じてました。

「責任や義務を果たさないと、権利は主張できないでしょ。だから僕はやりたいことをするためにやらなきゃいけないことを他人から文句をつけられないような完璧なクオリティでやってた。」

 

そうだと思ってました。

「人生で好きになる人は1人十分。たった一人と愛し合うの。浮気や不倫はもちろん、複数の人を好きになるなんてありえない。」

 

 

 

これらは私がここ最近サヨナラした呪いです。

 

体調の悪い仲間が、権利は義務の裏返しじゃないと教えてくれる学問が、ロマンティック・ラブ・イデオロギーや一夫一妻が生まれる歴史が、華麗に私の呪いを解きました。

 

私はいま、自由です。

解放されています。たぶん。

 

体調の悪い自分を、怠け、頑張る人を覆い隠す悪い人ではなく、そういう自分として肯定するのも悪くないかなと思えてます。

 

 

ただ、洗い流れ落ちた彼ら・彼女らの血が寂しい。切ない。

 

 

呪いをかけたあなたは、今日も血を吐き、人に呪いをかけて生きていますか?

それとも、誰かがあなたを自由にしましたか?

 

あなたの呪いを解きに魔法をかけに行くことは今は叶いません。

どうか、あなたが私にかけた呪いに自分で苦しまないことをお祈りしてます。心から。

 

そして、私があなたにかけたであろう呪いからは自由になりましたか?

 

私は呪いがなくなることで、自分の中からあなたがいなくなりそうで本当に寂しいです。

それでも私はあなたをきちんと思い出にして、あなたから自由になって生きていこうと思います。

だから、いらぬ心配、思い上がりだとわかっているけど、私から自由になってね。

 

 

 

呪いをかけた人へのお手紙でした。

 

この夏、呪いを解いた人が読んだらちょっと面白いかなと思ってブログに書きました。

 

ごきげんよう

 

 

言葉が欲しい!~ちょっぴり腐女子がうらやましい

こんにちは。櫻井翔になりたいガールです。

 

先日、私が疑似友情*1を感じている加藤シゲアキさんのことを先輩と話していた時です。

「でもまぁあの小説全然つまらないよね。全然面白くなかった。」と言われました。

いかんせんファンではないので、その小説を読んでおらず、「あーそうですか、」って流したんですよね。*2

 

でも家に帰る道でそのやりとりを思い出してふつふつと怒りがわいてきて。

だって、疑似友情を感じてるわけですから少なくとも彼に好意的な感情を抱いてますし、あまたいるタレントの中でも私にとってちょっと特別な存在なわけです。

それは会話の文脈の中でわかるはずなのに、わざわざ私に2回も繰り返して彼への否定的な評価をぶつけるってことは、わざと私にぶつかってきたんだなって気づいたんです。確信的な悪意じゃないかもだけど、でも、なんとなく思っていても言わないっていうの1対1のコミュニケーションでは優しい選択なんじゃないかと。わざわざぶつかるのには背景がある。

 

いるよね、人が好きだと表明してるものをわざわざ貶しに来て帰っていく人。

 

私もいるってのは話に聞いていたんです。だから絶対学校や職場でジャニオタであることをカミングアウト(わざとこの言葉を使っています)しない人って周りにも多い。

ただ私はあんまり実感なくて、うーん...って思ってたんですけど、先日はたと気づきました。しょっちゅう足を踏まれ過ぎて痛いって思えなかったんだって。

みんな生きてたら当たり前に人にぶつかられて歩いてるんだと思ってたけど、もしかして女だから新宿駅でぶつかられてたのかな、、、って気づいてしまったみたいな。

 

そしてここまで考えたあと、私もぶつかりに行ってたかもなとも思った。

高橋一生とか綾野剛とか竹内涼真とか一時にぶわーーってテレビで人気でる「イケメン俳優」苦手だったんだよね。そういうの好きな人にぶつかり稽古してた。これは「イケメンにキャーキャーする女」へのミソジニーだとも思うけど。(そしてジャニオタとしての自分がまんま「イケメンにキャーキャーする女」であるという皮肉な構造)

 

本題はこの先。ここまでエピソード。ただ、「オタク差別」の話をしたいわけではないことを頭に入れておいてください。

 

ジャニオタってぶつかられることが多いカテゴリーだと思う。(※経験則)

 

なのに自称が「ジャニオタ」なのがなんだか切なくなった。「ジャニオタ」って経験もスタンスも百人百通りであんまり括る意味がない総称なのだけど、こと”わざわざぶつかられる経験”に関しては共通の痛みの経験を有するような気がする(※経験則)

 

だって「オタク」は元々男性のアニメや漫画が好きな人を貶めるために使われたホモソーシャルな社会で、優位な男性から男性規範を外れた男性に向けてつけられた蔑称。

それを(完全にではないものの)queerではないが、アイデンティティとしてむしろ「オタク」と名乗り始め、その名乗りのおかげで「オタク」が単に「なにか物事に熱狂・熱中し詳しい人」くらいの意味中立的な言葉になりつつあると思う。

まだまだ、男性社会のなかでマスキュリニティが足りない男性への蔑称という側面も犯罪報道などでは強いと感じるけれど。

 

そんな「オタク」にカテゴリー(っていうか会社)の名前をつけて「ジャニオタ」な訳で。

ジャニオタは多くが女性で(男性がジャニーズを好きというしんどさは想像しかできないが)、ジャニオタの痛みは「オタク」の歴史性からくる痛みに加えて、女性が「イケメン」を好きでいることに伴う痛み*3や分断されてきた女同士が連帯する難しさに由来する痛み*4がある。

 

私がアイデンティティとして「ジャニオタ」を名乗る時、そこにあるのは単にそのタレントが好きだという誇らしさだけでない。その名乗りについて向けられるあらゆる視線を受け入れた上で「だからなんだっていうんだ」という思いも込めて名乗っている。

 

「ジャニオタ」は「ジャニオタ」にしか経験し得ない何かがある気がしてたまらないのだ。

だからこそ「ジャニオタ」という名乗りの座りが悪い。「オタク」というワードはホモソーシャルな社会が生んだ産物だと思うが、「ジャニオタ」の生き難さとホモソーシャルな社会はつながっているように思う。だから、私たち「ジャニオタ」に言葉があれば、、、!!!と思ったのだ。言葉が欲しい。

 

名乗る言葉が。

 

 

そう思った時にふと、「腐女子」を思い出した。

彼女らは、かなり自虐的な名乗りで自らの嗜好にともなう痛みを連帯する言葉を持っていた。なんかうらやましいと思った。

 

 

 

「オタク差別」はかなり慎重に取り扱わなければならない言葉だから(私はあんまりその考え方に賛同はしてない)、それについて言いたかったわけじゃない。

だから「ジャニオタ」の環境改善のためにアイデンティティポリティックスをやりたいわけでも何でもない。

暇だったからぼんやり考えていたらコロコロとこんなところまで思考が転がって、せっかくだから言葉にしてみた程度のことだ。頭がわるいので、小さいことを大きな概念を使って説明しちゃう。

そんでもって私が応援してるグループがファンネーム*5を持たないグループ*6

だから、余計にこういうことを考えちゃうのかもね。

 

ってことで、長々と失礼しました。

おあとがよろしいようで。

 

 

 

傘をもたない蟻たちは

傘をもたない蟻たちは

 

 

 

*1:疑似恋愛がありえるんだから疑似友情もあり得るに決まってるだろ

*2:お酒についての愚かな行動についての報道はともかくとして

*3:「現実見なよ」や「そんなことしてるからモテないんだよ」。あるいは男性を性的客体として見ていることに男性として抗議してくる人にもあったことがある

*4:というか私は仲間と仲良くやっているのだが、「女の敵は女」って話を勝手に当てはめて「大変そうだね笑」みたいな輩も多い。同担拒否やマウンティングは現実にあるようだけど。

*5:タレントによる公式のファンの呼び名。NEWSならパーナ、関ジャニならエイター

*6:あるっちゃああるけど積極的に本人たちが呼ばないのであんまりアイデンティティにならない