私たちのホモネタ論(前半)
春藤
司会を務めるWASEDA LGBT ALLY WEEK責任者の春藤です。
今日はホモネタについて考えていきたいと思います。
登壇者の紹介
なとせ
性性堂々というチャンネルで活動している、レズビアンのなとせです!
よろしくお願いしまーす!私は普段はyoutubeでレズビアンってどんな人たち?どんなところで出会ってるの?という感じの動画で挙げたりしていま~す!
太田
LGBTとエンタメというテーマで活動しているやる気あり美という団体の編集長兼代表の太田尚樹(おおたなおき)と申します。
「ここをネタにしていいのか、しちゃいけないのか」というのは日々、話ながら活動しているので、自分も勉強できればなと思ってやってきました、よろしくお願いします。
森山
早稲田大学の文学学術院で社会学とクィア・スタディーズを教えている森山至貴(もりやまのりたか)です。一応「真面目枠」で今回は呼ばれていることになるのでしょうか。
1つだけ最初に言っておきたいことがあって、「ゲイ×レズビアン×社会学者」というイベントタイトルあるように私は「社会学者」枠で参加していますが、同時に私はゲイでもあるので、そこを踏まえて話を聞いてもらえるとありがたいです。
僕も「笑われる対象」なのかなって
春藤
学生時代にメディアや日常の中でホモネタを見聞きして傷ついたことはありますか?
太田
具体的には思い出せないのですが、「何かしらはあったな」と思います。僕の高校時代はIKKOパイセンの全盛期であられまして(笑)
テレビに出ては「どんだけ~」と言って韓国のコスメを勧めるという時代だったんです。いじられるとかは具体的には覚えてないけどみんながIKKOさん笑っている中で自分も「笑われる対象」なんだなあ、というのはずっとありましたね。
当時はスマホもネットもあんまり普及してなくて、調べものがあんまりできなかったんですよね。
「レズ」って音が怖いんですよ
なとせ
私は中高女子高だったんですよ。バスケ部のかっこいい先輩がいて、その人のことを「かっこいい~」って言ってたら、「なとせレズだろ~」とか言われてましたね。「バレてる~~、なんで~~」って思った(笑)
「レズかよ~」とか「レズって噂されてるけど大丈夫!?」って友達に言われたりして、「私が本当にレズビアンだとは思わないの?」って感じだった。
「レズ」って濁音があって音が怖いんですよ~、今はもう一皮も二皮も剥けたけど当時は「レズ」って言われるたびに傷ついてた。
「絶対言わない」というこの人の偏見に傷ついている誰かがいる
春藤
早稲田の学生の言動の中に「ホモネタ」を見ることはありますか?
森山
僕の授業を履修している学生さんは基本的にセクシュアリティの問題かにセンシティブか、センシティブでなければいけない、という建前は知っている学生ばかりなので、直接的にそういう差別的な話を聞いたことはないです。
ただ、授業のリアクションペーパーの中で、「LGBT を差別してはいけないということや、LGBTを差別してはいけないという流れが世の中にあって、そのことは理解できるんですけど 自分の中にある偏見は消えないから、一生黙って誰にも言わずに生きていこうと思います」という意見があったりして。
「私に言ってるじゃんあんた」っていう。
太田
黙ってねえ~(笑)
森山
「絶対言わない」と言っているこの人は、きっとどこかでその偏見を漏らしていて、それで傷ついている被害者がどっかにいるんだろうな、と思いますね。
「性のあり方」の優先度の違いが軋轢を生むことも
春藤
逆に傷つけてしまったという経験はありますか。
太田
自分にとってセクシュアリティは大事なアイデンティティではあるんだけど、アイデンティティとしては今はかなり低い状態になっていて、日常の中であまり「自分はゲイだ!」ということに注目することがあんまりない。
言われたら「ゲイっす」くらいの感じで。「ゲイとして~~!!」というものがあんまりなくて。
だから、そういった時にぽろっと言ったことが今現在ゲイとして、セクシャルマイノリティとして苦しんでいる人にとったら僕の態度は粗雑だったりして、しんどいところもあるのかな~と思う。
森山
あるある。性のあり方の「優先度の違い」が当事者間にあると、けっこうコミュニケーションに気を使う。
「軽いものなんだよ」って自分のこととして思っていても、向こうにとって今すごく重要な問題の場合、その人は軽いこととして扱われているということをしんどく感じてしまう。
なとせ
あるある。 「結局、性別って関係ないよね!」、みたいなまとめ方をしちゃうと、「いや、関係あるんだけど」って、今まさに悩んでる人たちにとってはすごく雑に扱われたというか「そんなまとめ方で私の話は終わらないんだけど」みたいな気持ちにさせちゃうのかなって。
「レズビアン」どう呼称するか三大派閥
なとせ
後は呼称の問題かな。これはレズビアンあるあるなんですけど、自分のことを「レズ」っていうか「レズビアン」っていうか「ビアン」っていうかの三大派閥があって。
太田
ゲイ界隈も「ホモ」って言っちゃう人もいるし、「オカマ」って言う人もいるし。
森山
「ババア」もいるね(笑) これはまた違う問題だけど。
なとせ
あはは(笑)
今まさに「自分のアイデンティティをどう表現するか」ということを悩んでいる人たちにとって、私がYouTubeとかで軽々しく「レズ」とか言ったりするのは嫌だろうなと思う。 だけど、私は私のことを「レズ」って表現するのが一番しっくりきていて、それをどう折り合いをつけるのか難しい。
第三者の人から「レズって言わないでください」って怒られたりするときに、そこをどうやって伝えればいいのかなって思う。私が加害者になってしまうことも考えられるけど、私が私自身の立場をどうやって表明するかの自由が蔑ろにされていいものとも思わないし。
そういったセンシティブじゃない部分によって誰かを傷つけることがあるんだろうなって私は思うけど、もっと「レズ」という言葉をポジティブに使っていってもよくない?という意見もあると思う。
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春藤
それでは、来ていただいた方にも、「ホモネタ」について考えていただきたいと思いますので、これからグループワークを行っていただきます。私たちが考えた事例をもとに、「ホモネタ」について議論をしてください。そこで出た意見を紙に書いていただいて、それを元に後半の議論を進めていきたいと思います。
そして議論の際は、以下のグラウンドルールを守ってください。
・尊重し合おう…どんな意見も否定しないようにお願いします
・話したくないことは話さない
・シェアは慎重に…暴力等の経験の共有は慎重にお願いします
・見た目で判断しない‥見た目で人のジェンダーやセクシュアリティを決めつけて、それを前提に話をしないようにしましょう
・いつでも離席してOK!
【事例1】
ゲイを公言している人と、いわゆるストレートの人のお笑いコンビ。このコンビの漫才は、「ホモネタ」を主軸として進行していく。
このコンビがテレビ番組で披露したネタの中で、「ホモは気持ちが悪い」というセリフがあり大炎上。
しかし、炎上騒ぎの中でも「ゲイがゲイをネタにする分には問題がないのではないか」「そもそも誰も傷つけないネタは不可能なのだから、とやかくいうこと自体が野暮だ」「ポリコレに配慮しすぎるとどんないじりもできなくなって、つまらなくなる」というような意見が見られた。
「当事者同士なら?」
春藤
「当事者同士だからといって問題にならないということはない」という意見が出ました。
森山
その意見は本当にその通りだと思う。
ただ事実としてはゲイ同士とかレズビアン同士とかで自虐的な話し方をしてウケる、とか盛り上がるということは普通にある。けれどもゲイ同士だから何でも言っていいということには絶対にならない。
「みんなが笑える」ということはないかもしれない、ということは言える。だけど逆にヘテロとかの人が言ったのと同じように傷つくのかと言われればそれはまた違くて。
当事者同士だとヘテロの人に言われるよりは「(言っていいことの)許容度が上がる」というのはあると思う。
場合によってはすごく仲のいい人同士で、例えばヘテロの人がゲイに向かって「ホモ」と言っても「ウケる」時もあるかもしれないし、それが「ウケる」関係性というものはそれはそれで尊いものだと思う。
だから当事者・非当事者で明確に線を引くことはできないけど、そこでもやはり違いはある。
ネタの文脈で「ホモ」の意味も変わる
森山
これってネタの中身がどうなのかってところで、変わるところもあるかもしれない。
この発言を受けて、どんな返しをしているかにもよるよね。
例えば、「ホモは気持ち悪い」と言ったボケに対して、ツッコミが「今時そんなこと言ってんじゃねーよ」みたいな返しがあったのならそれはまた別の形になるのかな。それだとしたら逆に面白くなりうる。わざと「ホモ」という言葉を使って、批判的なメッセージとまではいかないまでもそれに近いことを伝える余地はあるはず。
なとせ
突っ込みようによってはポジティブなメッセージにもなりそう。
テレビ、マスコミュニケーションの影響力
春藤
「テレビという影響力の強いメディアでマイナスイメージを植え付けるようなことを言うべきではない」「テレビでやることで、『ホモは気持ち悪い』がテンプレート化する。いじめに発展する危険性もある」「ホモ=気持ち悪い=面白い、という記号が作られ、それが日常に流れ込む」という意見が出ました。
太田
テレビでやるとやっぱり記号化が起こるから、そこは意識していく時代になって欲しいと 思っているし、現になっていってると思う。
それこそ保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)の件はすごくエポック メイキングなことだったと思う。あれでメディア全体の意識が変わったと思ってるし、それはすごく良かったし必要なことだったとも思う。
森山
記号っていう話が出たけど、そもそもそういった記号の中に収まる事って面白くないん じゃないの、という話にはならないのか、という気も少しして。
「面白くないでしょ、この期に及んでホモネタとかさ」という風にクリエイトする人たちが思ってくれないと、とはちょっと思う。
見ている人たちの中にある「定型的な差別意識」というものをあてにして笑いを作る根性がなんなのって感じ。「プロ意識低くね?」って思う。
なとせ
お笑い論だ(笑)
森山
そこをひっくり返すから、お笑いって面白いはずだったんじゃないの、って思う。
なとせ
ユーチューバーもねyoutubeのネタを作るときに、「みんなが見たいもの」とか「みんなが見て面白いもの」とかを意識してネタを作ることがよくある。テレビもきっと同じような構造になってて、視聴者とか上の人が面白いと思うことでないと、放送してもらえない、というのは絶対あると思う。
古い体質がずっと上にあって、それを元にしてネタとかテレビを作ったりしているから、いつまでたっても同じような馬鹿馬鹿しいものが再生産されているんだよね。その古いものに対して、どっかで「面白くない」と言わなきゃいけないと思うし、それを今、言い始めたころなんだと思う。
「笑っていい」or「笑っちゃいけない」?
太田
「笑い」に関してすごく難しいなって思っているのは、よく「笑っていいよ」「笑っちゃダメ」みたいなことを言うけど、それが僕にはあんまりピンと来てなくて。
そうじゃなくて、「笑ってしまう」か「笑ってしまわないか」と僕は思っていて。
だから、基本的に「これを笑っちゃいけないよね」っていうような視点でやる気あり美ではものづくりはしていない。
僕とかメンバーのみしぇうとかはすごくいじめられっ子だったんですよ。みしぇうとかは特に。その時のマインドは今の自分に影響していますね。いじめられてボコボコにされてすごい鼻血とか出して、でもふと鏡で自分の顔を見たら、自分の顔がすごく面白くて笑っちゃった、みたいな。で、それって「笑っていい場面か」と言えば、「笑っていい場面」ではないんですよ。でも「笑ってしまう」ってあるじゃないですか。
だからこそお笑いをやる人たちは「笑ってしまう」恐怖みたいなものをちゃんと自覚しないといけないよなあ、と思う。
ちょっと前にジャルジャルがナインティナインの岡村さんをいじりすぎて炎上したことがあったじゃないですか。それに関してジャルジャルが取材を受けて、「誰も傷つけないことは無理じゃないですか~」ぐらいでインタビューは終わっていて。それはその通りなんだけど、でも「誰も傷つけないのは無理じゃないですか」って言ってるのは笑いのプロとしては「意識低いな」、と正直思った。
「笑ってしまうもの」だからこそ気にしなくてはいけなくて。確かに彼らは笑ってしまうものを作っているし、いじめている描写は笑ってしまうんだけど、でもプロであるならば、それをやってしまうことがいいのかどうか、みたいな判断は意識しないといけないと思う。
「誰も傷つけない」は諦めるけど、「誰を傷つけているのか」については自覚的であろう
太田
やる気あり美が一番の編集方針としているのは「誰も傷つけないことは諦めるけど、誰を傷つけているのかについて自覚的である」ということで、それを一番大事にしている。
その人を本当に傷つけていいのかとか、ピー・エス・エスとかもなとせ一緒に作ったけど、「この曲を聞いて不快と感じる人は誰なんだろう」とか、じゃあ「その人に不快と思われてもやりたいか」ということをめちゃくちゃ内部で議論したんだよね。
それはなんか笑いをやる上で、「笑ってしまう」という物を取り扱う人間としての礼儀なんじゃないかなという意識はある。だから、ジャルジャルのあれは結構興ざめだったな。「それはそうだろう」と思って。その中で「なぜやったのか」という基準を持っておかなきゃなあ、と。
ポリティカルコレクトネスとホモネタ
春藤
「『ホモは気持ち悪い』と思っている人は当然存在している。そういった人がいるのだから、そういった表現は当然出てくる。ならば、それをポリティカルコレクトネスによって弾圧することはよくないのではないか」という意見と、それとは反対に、「そもそもマイノリティしか攻撃しないのにもかかわらず、ポリティカルコレクトネスに対して、『うざい』といった態度をとることはマジョリティ側の保身にすぎない」という意見が出ました。
森山
「内面で同性愛者を気持ち悪いと思っている人がいるんだからいいじゃん」といいますし、そういう(差別感情を持つ)人はいるでしょう。
でも、「同性愛者を気持ち悪いと思っている人がいる」、だから「それに迎合をしていくような表現があってもおかしくないだろう」っていう展開には、すごい「ジャンプ」がある。
例えば、日本に住んでいる人の95%が嫌っている人がいたとして、「その人死ね」っていう表現でみんなが笑っていいのかといったら「ダメ」ってみんな考えるはずなんですよ。そこによくない「ジャンプ」があるって、みんな気づくはずなんです。
逆に言うとそこが「ジャンプ」じゃなくて、すんなりつながって見えてしまう、つまり、「嫌いな人がいる➝嫌いな気持ちがある➝それに迎合する表現をしても良いんだ」と思う「ジャンプ」が「ジャンプ」に見えないのが「差別の構造」のせいなんです。
普通は「それはダメだ」っていう歯止めがかかるはずなんだけど、特定の属性を持った人に関してはその歯止めがかからなくて、「みんな嫌いなんだし、『死ね』という表現はオッケーじゃん」っていう話になっていて、それが「ジャンプ」に見えないのがそもそも「差別」だっていう話。
(拍手が起こる)
太田
社会学者~!
なとせ
よっ!
森山
授業ではもう少し難しい話をしています!
(会場からも笑いが)
「表現の自由」は「どんな表現も誰からも批判されない自由」ではない
太田
僕、表現の自由に関しては表現の自由支持派なんですよね。さっき言ったのと一緒で「表現の自由」があるからには「表現の責任」があるはずで。
だからやっぱり、その自由を貫いているなら「どうやって責任をとるのか」というところに関しては意識すべきだと思う。
だからジャルジャルは自由を謳うけど責任を意識していなかったのが「ずるい」と思う。
そういう表現をしたいなら、批判されたときに「え~つまんない」で終わるんじゃなくて、それを言われた時に「そうですよね。それはそう思いました。俺らも悩みました。でもそこで岡村さん激しくいじるみたいな表現が俺らとしてはやっぱりやりたかったんです」っていうのだったら良かったんですけどね。
でも「それも駄目なの~?」ぐらいで終わらせたから、いやお前ら責任ないのに自由ばっか語りやがって!って思う。
森山
表現の自由って「どんな表現も誰からも批判されない自由」のことではないですからね。
表現の自由を行使して、表現をし、その表現に対して「いやそれ本当につまらないからやめろ」とか「人が傷つくからやめろ」と批判するのもまた、表現の自由の行使です。
そうやって揉まれながら、表現というものが色々と変わっていく、というのがそもそも全体としての表現の自由の成り立っている構造なので、表現の自由というのを盾にして批判をかわして済まそう思っている人がいたら、それはそもそも勘違い野郎(野郎かはわからないけど)だってことなんですよね。
に続く