私は「大学生」じゃない!!
おはようございます
こんにちは
こんばんは
「私」です。
いきなりですが、1つ謝りたいことがあります。
私は、早稲田大学に籍を置く、大学生です。
便宜上、題名で嘘をつきました。
ですが、「大学生」ではないのです。
この「」が意味するのは、ステレオタイプとしての「それ」という意味です。
いろんなステレオタイプがあります。
男なら○○だ
女なら○○だ
大学生なら○○だ
早稲田生なら○○だ
教育学部なら○○だ
一人っ子なら○○だ
末っ子なら○○だ
日本人なら○○だ
東京生まれなら○○だ
地方生まれなら○○だ
ウンザリするほどにいろいろあります。
遍在するそれは、時折、それに当てはまらない「私」に抑圧的に駆動します。
男なのに「男」じゃない私、
大学生なのに「大学生」じゃない私、
日本人なのに「日本人」じゃない私。
そうなのに「そう」じゃないってのは、結構な不安です。
少なくとも、「私」にとってはとても怖いものです。
自分を定義する言葉がないのは恐怖です。
地に張る根を失って、風が吹けば飛んでいくのではないかと。
怖くなった私は必死に「私」をステレオタイプに合わせようとします。
そうだから、「そう」である状態にするために。
そうだから「そう」、という図式はわかりやすくて最高です。頭が混乱しないですみます。
単語がもつステレオタイプに自分を合わせることで、その単語は「私」を定義することができるようになり、「私」は浮遊する根無し草にならずにすみます。
でも、まあうまくいきません。
だって私はそうだけど「そう」じゃないのだから。
ステレオタイプはステレオタイプに過ぎず、本当の姿などでは絶対にないのだから。
うまくいかないことを続けるのはとても疲れます。
私は疲れることがキライです。なので、私はステレオタイプに迎合していくことをやめました。
「私」を定義する言葉は「私」で十分なんです。
「私」の中には、たくさんの色があるけど、それらは全て不可分なんです。
全て合わさってぐちょぐちょに混ざりあって「私」なんです。
「男性」
「早稲田生」
「○○高校出身」
「生まれは東京」
「陸上競技をやってる」等々の「私」の情報を鍋に放り込んで、煮て、溶かして、型に流しこんで、冷やして、固めたところで「私」は完成しません。
確かにそれらは私の情報ではあるけど、「私」自身ではないから。
私の中に「早稲田生」という情報はあるけど、「早稲田生」の中に私はいない。
だから、私をまなざそうとするときに、「早稲田生」の中に私を見出そうとしても意味がない。そこに私はいない。
「私」を構成するのは、情報なんかでも、ましてやそれのステレオタイプなんかではなく、「私」というただ1つの物質なんです。
ただ1つの物質だから、当然因数分解することはできないし、それを示す言葉も「私」以外存在しません。
私を表す言葉が「私」しかないのなら、「男」や「東京出身」や「教育学部」といった言葉で「私」を無理やり定義する必要がはありません。
もう、「私 」だけで、間に合っているのだから。
素数としての「私」、
原子としての「私」、
アトムとしての「私」。
だから、
頑張って「大学生」になる必要なんてなかったんです。
飲みたくもないお酒を飲んで、したくもない遊びをする必要もなかったんです。
社会にある「大学生」像を目指す必要なんてないんです。
「そう」なれない自分に劣等感を覚える必要なんてないんです。
私は大学生だけど「大学生」じゃないから。
もしも、これを読んでくれている人の中に、「」に苦しんでいる人がいたら、そんなものはトイレにでも流してしまいましょう。
3号館のトイレなんかいいんじゃないでしょうか。流れる勢いが一般的な便器よりも強いような気がします。
それでも、やっぱりステレオタイプから逃れられねえよ‥という方もいらっしゃると思います。
そんなあなたは新歓においでよ
クィアなサークルメンバーがあなたを出迎えます。
7/30(月)19時~ (おそらく高田馬場) でやるよ。
お待ちしております!
抽象的で分かりにくい文章ですいません。
次、筆をとるときはもっとイイ文章を。
「アトム」という言葉を使った時に頭の中に「燃え上れ~燃え上れ~燃え上れ~」って流れたんですけどこれガンダムですね。アトムは「100まーん、馬力―だ、てつわーんあとーむぅぅぅ」ですね。