私は「大学生」じゃない!!
おはようございます
こんにちは
こんばんは
「私」です。
いきなりですが、1つ謝りたいことがあります。
私は、早稲田大学に籍を置く、大学生です。
便宜上、題名で嘘をつきました。
ですが、「大学生」ではないのです。
この「」が意味するのは、ステレオタイプとしての「それ」という意味です。
いろんなステレオタイプがあります。
男なら○○だ
女なら○○だ
大学生なら○○だ
早稲田生なら○○だ
教育学部なら○○だ
一人っ子なら○○だ
末っ子なら○○だ
日本人なら○○だ
東京生まれなら○○だ
地方生まれなら○○だ
ウンザリするほどにいろいろあります。
遍在するそれは、時折、それに当てはまらない「私」に抑圧的に駆動します。
男なのに「男」じゃない私、
大学生なのに「大学生」じゃない私、
日本人なのに「日本人」じゃない私。
そうなのに「そう」じゃないってのは、結構な不安です。
少なくとも、「私」にとってはとても怖いものです。
自分を定義する言葉がないのは恐怖です。
地に張る根を失って、風が吹けば飛んでいくのではないかと。
怖くなった私は必死に「私」をステレオタイプに合わせようとします。
そうだから、「そう」である状態にするために。
そうだから「そう」、という図式はわかりやすくて最高です。頭が混乱しないですみます。
単語がもつステレオタイプに自分を合わせることで、その単語は「私」を定義することができるようになり、「私」は浮遊する根無し草にならずにすみます。
でも、まあうまくいきません。
だって私はそうだけど「そう」じゃないのだから。
ステレオタイプはステレオタイプに過ぎず、本当の姿などでは絶対にないのだから。
うまくいかないことを続けるのはとても疲れます。
私は疲れることがキライです。なので、私はステレオタイプに迎合していくことをやめました。
「私」を定義する言葉は「私」で十分なんです。
「私」の中には、たくさんの色があるけど、それらは全て不可分なんです。
全て合わさってぐちょぐちょに混ざりあって「私」なんです。
「男性」
「早稲田生」
「○○高校出身」
「生まれは東京」
「陸上競技をやってる」等々の「私」の情報を鍋に放り込んで、煮て、溶かして、型に流しこんで、冷やして、固めたところで「私」は完成しません。
確かにそれらは私の情報ではあるけど、「私」自身ではないから。
私の中に「早稲田生」という情報はあるけど、「早稲田生」の中に私はいない。
だから、私をまなざそうとするときに、「早稲田生」の中に私を見出そうとしても意味がない。そこに私はいない。
「私」を構成するのは、情報なんかでも、ましてやそれのステレオタイプなんかではなく、「私」というただ1つの物質なんです。
ただ1つの物質だから、当然因数分解することはできないし、それを示す言葉も「私」以外存在しません。
私を表す言葉が「私」しかないのなら、「男」や「東京出身」や「教育学部」といった言葉で「私」を無理やり定義する必要がはありません。
もう、「私 」だけで、間に合っているのだから。
素数としての「私」、
原子としての「私」、
アトムとしての「私」。
だから、
頑張って「大学生」になる必要なんてなかったんです。
飲みたくもないお酒を飲んで、したくもない遊びをする必要もなかったんです。
社会にある「大学生」像を目指す必要なんてないんです。
「そう」なれない自分に劣等感を覚える必要なんてないんです。
私は大学生だけど「大学生」じゃないから。
もしも、これを読んでくれている人の中に、「」に苦しんでいる人がいたら、そんなものはトイレにでも流してしまいましょう。
3号館のトイレなんかいいんじゃないでしょうか。流れる勢いが一般的な便器よりも強いような気がします。
それでも、やっぱりステレオタイプから逃れられねえよ‥という方もいらっしゃると思います。
そんなあなたは新歓においでよ
クィアなサークルメンバーがあなたを出迎えます。
7/30(月)19時~ (おそらく高田馬場) でやるよ。
お待ちしております!
抽象的で分かりにくい文章ですいません。
次、筆をとるときはもっとイイ文章を。
「アトム」という言葉を使った時に頭の中に「燃え上れ~燃え上れ~燃え上れ~」って流れたんですけどこれガンダムですね。アトムは「100まーん、馬力―だ、てつわーんあとーむぅぅぅ」ですね。
同性と付き合ってた頃〜「レズかよ!!!!!」〜
めいちゃんです。
高校の時、むちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ好きでマジでラブリー!ビューティフル!らぶい!って感じで女の子と付き合ってました。
ある冬の日の音楽室。よく覚えてる。
私の友達は私とその彼女のことを
「レズかよ!!!!!」
と大きな声で言いました。
私はLGBT当事者として、今までいじめにあったことがないし、学校の先生も友達もみんなフレンドリーに接してくれてました。
だから、「当事者」として何か差別に関して言うとか、「おこがましい」と思ってました。
でもね。
今でもあの声を思い出すんです。
「レズかよ!!!!!!!」
あの時は、泣きもしなかったし、
悪意のない言葉だから大丈夫、
その友達とも仲が良いし、
私はそんなに傷ついてないって
思ったけど、思うことにしたけど、
あれから5年経ってもふと思い出す。
あのとき、誤魔化して笑うことしかできなかったことを思い出す。
「私は傷ついてなんていない」と強がることしかできなかった17歳の自分のことを思い出す。
つらかったね。
ひどいねって、誰かに背中をさすってほしかったよね。
一人で抱え込んで、忘れようとして、よく頑張ったね。
そうやって言ってくる友達のことも憎まないあなたが、好きだよ。
5年も経って、17歳の自分にやっとそう声をかけてあげられる気がする。
共に思い出すのは、
夕陽に照らされた彼女の黒くうねった髪の毛と
彼女の弾くピアノ、をもたれかけながら聞く美しい時間
家族に愛されて育ったことがわかる彼女の一つ一つの動作
豊かな、でも鋭いその思考力
彼女そのもののような端正な文字。
「レズかよ」って言葉で覆い隠されたのは、そういう気持ち。
WASEDA LGBT ALLY WEEKでは、性にまつわる【あなたの差別された/差別した/差別を目撃した体験】を募集しております。
応募フォーム👇
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSctw4Wy1UUikQSFNzTkD1hPiCHTv3yg7kWMEqN7suBMwuMD4g/viewform
性に関する差別体験とかむずくね~?
って思うかもしれませんが、
【差別をみた体験】とかでもいいので
テレビでこういうのをみたとかでもいいですヨ
いろーんな人の話がお聞きしたいので、ぜひ書いてね。
お願い!!!!!!これ投稿してくれたら全部めいちゃんが目を通すし、いい文だったらめっちゃ目立つとこに載せるから!!!ねぇよろしく!!!!!私への愛だと思って!!!!!!ヨロ美!!! https://t.co/FjQSMgQa3X
— めいちゃん (@farb_) 2018年5月9日
好きに名乗れ、話はそれからだ
ご入学おめでとうございます!
ゴリゴリの新歓シーズンに突入、新入生の皆様におかれましては
「とりあえずコンパに行って食費を浮かせ」
「人脈つくれ」
「履修は慎重に組め」
などなど、一体ほんとにあてにしていいのかダメなのかよく分からないアドバイスを受けていることでしょう。
個人的な意見ですが、その手のアドバイスは信じなくていいです。行きたくない新歓、めんどくさいコンパは切ってもいいし、#春から早稲田 同様に新歓コンパで出来た友達は直後には活かせません。よっ友になるか、無視するかです。履修も、せっかく大学に入ったんだから楽単とか王道とかに騙されず好きな履修を組んで下さい。
いや、名乗れや。
と思った人いますか?アドバイスするなら誰がブログ書いてるのかを示せと。思ってなくてもブログの構成上思ったことにしといてください。そうです、これがヤラセです。
改めましてこんにちは♡
お久しぶりの櫻井翔になりたいガールです。櫻井翔って呼んで下さい。
そう!本題に入るのがかなり遅れたけれど、私から大きな大きなアドバイスをするならば、4月のやりたくもない無数の自己紹介で是非、是非とも
「○○と呼んでください」
の一言を付けたしましょう。
じゃないと必然的に「☆☆ちゃん」「☆☆くん」の下の名前プラスジェンダーゴリ押しの呼び名を付けられます。
それでいい!という人はそれでいいです。でも、それに違和感がある人もいるでしょう。
ちなみに私は、中高6年間し、親しい人ほど「苗字呼び捨て」で呼ばれて来ました。
そんな人間は、ある日突然下の名前で呼ばれるようになっても、全く反応できませんでした。
そもそも、男の先輩から「○○ちゃん!」「やっぱり一女は可愛いね」みたいなアレにマジでイライラしてました。
てめぇらのホステスじゃねぇんだよ、一年生は。
そんな時、「なんて呼べばいい?」と聞いてくれる先輩に出会いました。
その先輩は、自己紹介のとき、「△△と呼んでください」と言いました。
それ以来、私は自己紹介のとき、「○○と呼んでください」と付けています。
自己紹介は、自己紹介。
あなたに認識されたいアイデンティティを示す機会、なのかなとも思います。
だから、(開示したくない情報は開示しなくていいんだけど)
「(私をこう認識しろ!)って呼んでください!!」
って自己紹介してみてもいいんじゃないかと思います。
ちなみに私は3年になりましたが「○○って呼んでください!」って言ってるのに、別の"可愛らしい"あだ名を付けようとする、くせに好感度モンスターというラスボスに出会ったので、そいつにも何回も自己紹介して、私が呼んでほしい名前で呼んでもらおうと思います。
イケメンだからって女の子に可愛いあだ名つけとけば喜ぶって勘違いしてんじゃねーぞ!
戸籍の名前かどうか、名前か苗字か、そんなこと関係なく、ぜひ呼ばれたい名前を自己紹介で名乗れますように……!
大学生活のスタートダッシュ。もう教室内でのキャラとか関係ないから。
他人からジャッジされ、名乗らされる名前ではなく、あなたがあなたをデザインして、自由な一歩を踏み出せますように。
なんでもなれる!なんでもできる!フレ!フレ!!新入生!
アンテナの感度を
おはようございます。
こんにちは。
こんばんは。
ワタクシです。
ところで(どう考えても日本語がおかしい)
私は大1の2月というなかなかヘンな時期にこのイベント企画サークルqoonに入りました。
理由は「早稲田生は馬鹿ばかりだって、思っている君へ。」というなかなか挑戦的なポスターが学内中に張り出されていて、見事にその炎上商法とも言える煽りに乗せられ「おもしろそう」と思ってしまったから。
それでまあノコノコと新歓に行ったわけです。ぼっちで。「一体どんな人たちが『早稲田生は馬鹿ばかり』と言っているのだろうか」と。
色々と衝撃でした。新歓後しばらくして参加したミーティングも衝撃の連続でした。
その理由は来ていただければ分かると思います。
その様々な衝撃の中で最もインパクトがあったのは、
qoonの人たちのアンテナの感度の良さです。
アンテナの感度がいい、というのは別にハッピー!なことではないんです。
感度がいいと、ただ生活しているだけでは聴こえてこないような声が聴こえてくるんです。
その声は全くもってハッピー!なものではないのです。ヒッピーでもホッピーでもチャッピーでもキャッチ―でもないです。
しかもその声というのは無視していても生きていくのになんの問題もないんです。
それらを無視しても太陽は東から登って西に沈みますし、セブンのコーヒーはほどほどに美味しいし、大隈重信の銅像は変わらずあの場所に立ち続けます。
アンテナの感度は、下げたほうが圧倒的に楽なんです。聞こえの良いポップでハッピーなミュージックでも聴いているほうが絶対に楽なんです。
それでも、このイベント企画サークル、qoonの人たちはアンテナの感度を下げることは決してありません。
聴こえない声に耳を澄まし、目に映らないものを見ようとし、手で触れられないものを愛撫しようとする、それがきっとこのサークルなのです。
入って一か月の新参者が偉そうなことをのたまってすみません。
聴こえない声を聴きたい人、
目に映らないものを見たい人、
手で触れられないものを愛撫したい人、
それか
声を聴いて欲しい人、
見て欲しい人、
愛撫されたい人(?)、
は是非qoonに来てください、
新歓で待っています。
オチが思いつかないのでとりあえずザ・タッチとマナカナとの4人での推しカプ発表して今日は終わります。
広海・深海です。
ビッチ、HIV/AIDS検査を受けるの巻
どうも♡
新歓コンパで
「あの…バイブスいぇーい!の人ですよね?」
って新入生に言われた
めいちゃんです♡
発達障害持ちだろうが
心療内科にかかりっきりだろうが
極度のメンヘラだろうが
毒親持ちだろうが
あたしはパリピとして生きる!
という心持ちで、
バイブスぶち上がった日々を過ごしています。
夜遊びイェーイ!!
今回はこちら!
ビッチ、HIV/AIDS検査を受けるの巻
週5で逢瀬をしてきた
メンヘラビッチのめいちゃんですが、
それはもう色々な逢瀬がありまして、
ここはひとつ、
ビッチ、嗜みとして
HIV/AIDS検査を受けました。
彼氏に移したくなかったので。
思い立った私は
スタバから近所の保健所に
電話をかけ、無事翌日の予約をゲット。
スターバックスもきっとびっくりです。
検査は匿名・無料で受けられます。
予約なし、即日の検査もありましたが、
私は予約して梅毒・クラミジア・B型肝炎の検査も一緒にやってもらいました!
HIV/AIDSに関しての教材ビデオか流れる待合室でどきどきしながら待ちました。
あの、
検査しにきている人、普通の人ばっかだった、
というか、普通の人しかいなかった。
当たり前だった。
セックスって、だって普通の人のものでもあるんだもん。
セックスと性感染症は、だって隣り合わせのものだもん。
血を抜かれる時は、出来るだけ気丈に振る舞った。
小さい頃から苦手な採血を、大人である私は我慢しなきゃいけないと思ったから。
「コンドームつけずにヤられた女」なんて思われたくなかったから。
私は、男性と対等にセックスをして、だから同じようにリスクを背負うんだって思いたかった。
私は、できるだけ愛想よく、元気そうに受け答えをし、丁寧にお礼を言って採血の部屋を出た。
正直、怖かった。
とても怖かった。
1週間後、結果が出ました。
すべて陰性でした。
よかった。
みんな、コンドーム必須よ!
ビッチとの約束だかんね!
あと無料で検査できんだから
みんな受けろよ!
自分の体も、自分の大切な人の体も、
大切にしようね。
ヨロ美!
次回、
ビッチ、アフターピルを飲むの巻
乞うご期待!
自分でもわろてるんですけど、3Pしました〜〜
— めいちゃん (@farb_) 2017年8月23日
自分には絶対に関係のないことだって線引きしているものに、或る日突然ぶちあたることってありますよね。それまでへらへらと笑っていられたのに急に自分の範囲内の中に。焦る。私も3Pをするとは思ってなかったです。あなたもきっと気づいたらすぐそばに3Pが潜んでいるかもしれませんよ。
— めいちゃん (@farb_) 2017年8月26日
セックスはやはり前向きな気持ちで臨むことが大事
— めいちゃん (@farb_) 2018年3月13日
「髪を染めているような奴は、ガラスを見れば叩き割り、信号は無視し、花があれば引っこ抜く」? (染髪と素行に相関関係はあるのか)
こんにちは
いい天気ですね(?)
みなさん春休みいかがお過ごしでしょうか。
私はいま、人っ子一人こない自習室の番人をするバイトをしています。
えぇ、不労所得です。(違う)
みなさん不労所得は好きですか?私は大好きです。
今日こそこんな暇でブログ書くくらいしかすることがないですが、普段はそこそこ忙しそうに中高生相手に英語やら国語やらを教えています。塾講師バイトは比較的ベタなバイトなのでご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが、それなりにドレスコードがしっかりとあります。スーツの色、ネクタイの柄、靴の種類、靴下はこの長さなどなど服装に関して様々な規則が存在しています。
そして、そのドレスコードでは服装だけでなく髪型・髪色にもそれなりに制限があります。
「髪型は清潔感がってうんたらかんたら~」「髪色は不快感を与えないうんたらかんたら~」とこのバイトを始めるときの書類か何かに書いてあったような気もします。
だがしかし
私は、
髪を緑にしたい!!!
もっと正確に言えば、インナーカラーを緑にしたいのです、淡い感じの。
しかし、私は しがない ただのパートタイム労働者。巨大なほにゃらら予備校の力には
敵いっこありません
「塾バイトやめて髪色自由なバイトしろよ」
と怒号が飛んできそうです。これには反論の余地がない正論なんですが、これでも私は教員志望。人の前に立って話すという経験をしっかりと積んでおきたいのです
「そのくらい我慢しろよ」
こんな正論パンチも飛んできそうです。怖っ、つよい、かてない。。。
そんな👊正論パンチ👊の猛攻に耐えながらもなぜ髪を染めてはいけないのか私なりに考えてみました。
①子供や保護者様からの印象が悪い。
これはまあそうでしょうよって感じですね。塾運営の本音としては保護者様のほうが重要でしょうけども。これは大変合理的な判断です。講師全員が髪の毛真っ黒で七三分けにしている塾と講師全員茶髪でロン毛で髪ぼさぼさの塾なら前者のほうが大事な子供を預けるのに信用できる気がします。(全員真っ黒七三というのはそれはそれで奇怪な空間な気もするけど)信用できるほうが顧客も当然増え、売り上げアップですよね。
ならばそもそも、
なぜ髪を染めた人は印象が悪いのでしょうか?
(ちなみにさっき①と書いたがあれは真っ赤な嘘だ。②以降は登場しない)
そこには恐らく
「髪を染めているような奴は、ガラスを見れば叩き割り、信号は無視し、花があれば引っこ抜く」
という先入観があるからではないだろうか
上の「」で挟まれた内容には少々(?)言い過ぎな感はあるが、方向性としてはこういうことだろう。
恐らくこれを読んで下さっている人(ありがとうございます)は「いくらなんでも誇張しすぎだ」「そこまで思っている人はいない」と画面に向かって唾を吐きかけていることでしょう。
無論、これは私の得意とする誇張である。50/1くらいのスケールにしたものである。
だが、私が言いたいことは
「髪を染めている」ということと「素行の悪さ」とを個人差はあるが
結びつけている人は一定数いる、ということである。
そこで私、その結びつきに確からしさがあるのか興味が出てきたので、あるアンケートを作ってみました。
それは
「髪を染めている」という問いと、「あなたの学生時代の成績(5段階評価1刻み)」という問いを用意し、「髪を染めている」という問いにYESと答えた人の成績の平均と、NOと答えた人の成績の平均に差はでるのかということを調べるためのものです。
YESと答えた人の成績の平均がNOと答えた人の成績の平均よりも低ければ、「髪を染めている」ということと「素行の悪さ」の結びつきに根拠があるということになり、高ければ 根拠はないということになります。
(※なぜ学校の成績なのか?
→学校の成績を取るためにはもちろん試験でいい点数を取る必要もありますが、しかしそれよりもむしろ課題をしっかりと出している、授業態度が悪くない、しっかりと出席をしているといったような事柄が学校で成績を取るために重要であるので、学校の成績を今回焦点にしている「素行」を図るうえで有効な指標になると判断したからです。)
それでは結果発表に移りたいと思います。296人の方がアンケートに協力してくれました。本当にありがとうございます。
では結果発表!!!
じゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃん!!!!!
「YES」群、3.743!!!!!
(5段階評価)
続いては「NO」群!!
じゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃん!!!!!
「NO」群、4.075!!!!
(5段階評価)
その差、0.332!!!!
なんも言えねえ
んん~まあ差があるっちゃあるけど「相関関係にある」と断言できるほどはっきりとした差があるわけじゃないしな~
うーーーーーーーーーーーーん
ここまで読んで下さったみなさん、きっとモヤっとボール(死語)を画面にぶん投げてると思います。
いやほんとすいません。
結局のところ、この結果から分かることは
「染髪と素行は相関関係にあるような気もする」
ということだけのようです。
✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂
私が何を言いたかったかというと、
「人は見た目で判断しなさい」
と教える親は、そんなにいないと思います。
でも実際のところ
「人を見た目で判断する」
ことはよく行われることだと思います。
見た目から判断できる事柄も存在するかもしれません。
しかし、見た目によってレッテルを貼ってその人を知った気になるのはおかしなことです。
もし仮に、「髪を染めている人は素行が悪い傾向にある」という確かなデータが存在していたとしても、ある特定の誰かがそれに当てはまるかはまた別の話です。
髪色一つで何を大げさな、と思っているかもしれません。
でもこのレッテル貼りに使われる条件が「髪色」ではなく、「男」とか「女」、「日本人」だったらどうでしょう。
「男だからこうに違いない!」
「女の子なんだからこうだよね!」
「日本人ならきっとこうだ!!」
なんかこれ、息苦しくないですか?
見た目で判断してレッテルを貼ることもこれらと本質的には同じことなんじゃないかなあと思います。
もっと酸素が欲しいですね。
話は変わりますけどもう2018年も3月ですか。
はやいですね。
いろんなことがありましたね。
ポプテピピックがアニメ化したりね。他には特になにもありませんでしたね。
書くことなくなったのでこの辺で失礼します。
#春から早稲田 で検索かけて同じ学部学科の人をフォローしようとしている君に告ぐ。
この記事を読んでくれているのは誰だろう。
元々qoonのアカウントをフォローしていた人は勿論いるはずだ。(感謝申し上げます)
qoon関係者の人も当然そこに含まれているだろう。(いつもお世話になっております)
しかしそこには、「同じ学部学科の人いないかな~」と #春から早稲田 で検索をかけたら、この全く求めていないブログが出てきてしまったという同情に値する新入生諸君も存在しているに違いない。
このブログのリンクをタップしたのも何かの縁でしょう、大した長さではありません。最後までお付き合いしていただけると幸いです。途中下車はおすすめできません(激寒)
ところで
そんな諸君が #春から早稲田 で検索をかけた理由は一体なんだろうか。
「いや前の段落に『同じ学部学科の人いないかな~』と、と自分で書いてるやんけアホなのかこいつ」と
心の中で毒づいたせっかちでロックな君、まあまあ話は最後まで聞き給え(補助動詞 ハ行4段活用 命令形 尊敬)
私が聞いているのはそれより一歩前の話である。君はどうして「同じ学部学科の人」を探しているのだろうか。「(事前に)仲間を見つけたい」「(事前に)友達が欲しい」etc. あたりが主な動機だろうか。
ではさらに掘り下げて、君たちはどうして「(事前に)仲間を見つけたい」「(事前に)友達が欲しい」と思ったのだろうか。
そこにあるのはどういった感情なのだろうか。
私の場合、これは不安であった。
当然、このブログを読んでいる人々はありえんダイバーシティみが深いはずなのでもっと別の感情がその行動の根っこのある人もいるであろう。
もっとポジティブな感情から #春から早稲田 検索を行った人も一定数いるはずである。
しかし、これは私の完全なる独断と偏見、なんのデータも引用もないが、ネガティブな感情から#春から早稲田 検索を行った人、結構多いのではないだろうか。
「入学式でぼっちなんて辛い」
「1人でいるのは不安」
「周りにおいて行かれたくない」
こんな感じの不安。というより一年前の私の不安。
そうしてそれらの不安に駆られた君たちはツイッターをぽちぽちし、友達候補をネット上で選抜するのだ。(約4割の大学生が入学前にSNSを使って友達をつくるそうな)
しばらくネットの海を航海していると君はこんなツイートを見つけるだろう。
「○○学部全体のグループLINEを作ったので入りたい人いたら連絡下さ~い♪」
そして君はこうリプライを送るに違いない、
「突然リプしてごめんなさい(・_・;) 僕も同じ学部なのでグループラインに入れてもらってもいいですか…??」
ああああああああああああああ!!!!!!!!
突然すいません。持病の思い出死にたい病の症状が出てきてしまいました。ちなみに上のリプライは私のツイッターの原文引用です。もうツイ消ししましたけど。
こうして君たちは喰えもしない学部グループラインへの入会を果たし、
「とりあえず置いて行かれてはいない」というインスタントの安心感を入手し、ほっと胸をなでおろすのである。
しかしこの安心感、果たして手放しで喜んでいいものなのだろうか。
そもそも君たち、というより私はグループラインに入ることに、加えてツイッターで同じ学部学科の人をフォローすることに、どうして安心感を見出したのだろうか。
人は繋がっていたい生き物である、と どこかの偉そうな教授が言っていた。
誰とも繋がっていない状態では人は宙ぶらりんになってしまう、真空に放り出されてしまう。そこで誰かと繋がっていることで、放り出されずに一定空間に留まることが可能になる。その誰かとの距離から相対的に「自分」の「輪郭」が明瞭になる。それゆえ、多くの人間と繋がれば繋がるほど、自分の位置を決定する糸が増え、位置は安定する。らしい。
ラッコって寝るときに流されないように海藻つかんだり仲間のラッコの手を握ったりするそうなんです。ラッコ可愛い!
宙ぶらりんになるの嫌じゃないですか、自分がどこにいるかわからないの怖いじゃないですか。それを解消するために人間は繋がっていくそうです。人間もラッコみたいなもんだっていう話らしいです。その教授曰く。人間可愛い?
ほとんどの新入生がそれまで構築してきた人間関係とはまた別の人間関係を大学では構築し直さなくてはいけません。高校時代は隣のラッコと手を繋いで繋がっていれたところを、その手を放し、また別のラッコを見つけて流されないように手を繋がなくてはいけません。
この「手を繋ぐラッコ探し」の作業が大学入学前においては
#春から早稲田 であり
「突然リプしてごめんなさい(・_・;) 僕も同じ学部なのでグループラインに入れてもらってもいいですか…??」 なのである。
繋がると安心しますよね!でも繋がった相手がどうしようもない奴らだったらどうしますか?その手をちゃんと振り切れますか?自分の泳ぎたい方向に泳いで行けますか?
手を繋ぐことを批判したい訳ではありません。ただ手を繋いでいることは人間生活の必須条件じゃないと私は思うのです。宙ぶらりんになることを恐れて無理やり手を繋ぐ相手を選んで、それで自分が行きたくない方向へと引っ張られていったんじゃしんどすぎませんか。
とどのつまり、何が言いたいかというとこの時期に友達がいなかったとしてもなにも問題ないと思います。手を繋がずとも、海藻に体に巻き付けずとも生きていけるラッコになればいいのです。そしてそうしているうちにきっと同じようなラッコが近づいてくるでしょう。その気が合いそうなラッコと手を繋げばいいいんです。
なんか説教臭いですね。気色が悪いですね。言いたいことがまとまりませんね。ですます調とである調の統一すらできないくらい今日は頭が回っていないようです。これ以上書いていっても着地点わからないまま終わりそうなので今日はこの辺で不時着したいと思います。
まとまりのない文章だったのでとりあえず僕の推しメンのブログのリンク張って今日はお暇させていただきます。最後まで読んでいただきありがとうございました。